本をたくさん読んでみるとわかることは、結局本というのは文章という形を通して著者と非同期型のコミュニケーションをとっているということです。
会話のように同期型のコミュニケーションを取っているときの違いは、リアルタイムに情報の受け手の反応を見ながら、相手の理解度に合わせて発信方法を変えたり模索することができないということです。
そうすると、何が起こるかというと、読者側は自分の理解度が追いつく部分の文章しかその本の中から読み取ることができないのです。
読める本とその人のレベルというのは釣り合っています。
小さい頃から本を読んで、読書習慣がついている人は、長年の修練の結果として、内容が高度な本も読むことが可能になりますが、そのような習慣がなく、長文に耐えることができない人はレベルの高い本を読むことが困難になります。
これは結局はレベルの高いことを考えている人とのコミュニケーションをうまくとれていないということにつながるため、新しい、理解の難易度の高いことを学ぶことも困難になると言うことです。
読書習慣が身についている人と、身についていない人とでは、私の体感では30歳になるころまでには、思考の深みという点でかなりの差がついていると感じます。
現代では、学び続ける人、変化し続ける人こそが生き残ることができるようになるという話は、昨今では当たり前のようによく聞くようになりました。
しかし、学び続けることができる人というのは、そもそも、難易度が高い本を読むことが可能なレベルまで読書習慣がついていたりすることが多く、それができない人と比較すると、学習効率に大きな差が既に生まれているということになるのかもしれません。
学び続けるための基礎体力のようなものでしょうか。
本の話に戻ると、読者の理解度が乏しいと、100の内容の難しい本を買って目を通したとしても、5ぐらいしか理解できないと言うことが起こりえます。
そこで諦めてその本を捨てることもできますし、なんとなく積ん読しておいて気が向いたときにまた読んでみるということもできます。
真面目な人でしたら、その本を見た瞬間に、基礎的な情報が自分の中に無いということがわかり、入門書のような物から地道に勉強する人もいると思います。
本を買う際には、同じ分野の本を何冊も買って取りあえず読んでみるというやり方を取っている人は自動的にこのような読み方をしているのだと思います。
自分の理解度が高まれば高まるほど、同じ文章から読み取れる情報も増えていくので、1年前に買った本を改めて読んでみると、「この本はここまでちゃんと書いてあったのか」ということが偶に分かるようになったりします。
このような発見を同じ本からすることができるようになるたびに、筆者とよりコミュニケーションが取ることができるようになったと言うことを意味しているため、これは明らかに自分の成長のメルクマールとなっているのだと思います。
本は1回読んだら捨ててしまうと言う人もいますが、ハウツー本のように読みやすくかつ知識が陳腐化されやすい本と違って抽象的な内容の本、専門的な本、いわゆる難しい本の場合は、このように何度も時間を空けて読んでみることができると、自分と筆者との間で段々まともにコミュニケーションをとることができるようになるという成長実感を伴った喜びを感じることができるようになるのです。
高い読書習慣を持っている人の本棚というのは大抵このようなタイプの本で埋められています。
最近は、電子書籍なども普及してきていますが、この手の本はやはり紙媒体の形で何度も読むことを前提に買うことが望ましいと考えています。電子書籍でも何度も読めるという人はそれで大丈夫だとは思います。
人の家などを訪問する際には、私は無意識に本棚をチェックする癖がありますが、本棚に並んでいる本を見るとやはりその人の読書習慣のレベルや、思考の深さに関する情報が読み取れます。
微妙な本ばかりが本棚に並んでいる人の思考はやはり微妙です。
読書習慣というのは典型的な微差が大差に繋がるものであると考えていますが、同じ本を何度も何度も読んで復習していくことでも今までとはまた違った景色が見えてくる物だと感じています。