労働者のままでは資本主義社会の主役になれないという現実

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資本主義社会に生まれてしまった私たちはどう生きていけばいいのか、就活後からずっと考えていました。

思えば、私たちは望まなくても資本主義社会の下、生まれてしまいました。

私は正直大学生になるくらいまで、自分が資本主義社会の下でプレイヤーとしての役割を与えられた存在だとは全く思っていませんでした。

しかし、大学で初めて学んだ民法によって、自分が望んでも望まなくても、資本主義社会のプレイヤーとして私たちは生きていかなければいけない存在であることに気づいたのです。

民法によると、私たちが成年になるべき年齢が決まっています。

いつのまにか、成年になるべき年齢が20歳から18歳に引き下げになりました。ここではその是非については触れません。

成年に至っていない人たちを民法は未成年と呼んでいます。

未成年と成年では法律上の扱いは大きく異なります。

大きく違うのは、未成年は制限行為能力者として、親を始めとした「法定代理人」の庇護の下で契約関係などを結ぶことになりますが、成年になった瞬間に何故か「一人前になった」という謎の扱いになり、本人の能力にかかわらず責任を持って契約関係を結ばなくてはならなくなります。

(刑事事件においても、未成年において犯罪行為を行うのと、成年において犯罪行為を行うのでは問われる責任の重さも異なってきます。)

例えば、高い新築マンションを買うなど大きな決断をして契約を結んだとして、本人にまともな判断能力が無ければカモにされたりするものですが、成年である以上基本的に守ってくれるのは消費者保護法くらいのものです。

成年になってしまって、完全な能力を持つとされた人々は本人が望まなくても資本主義社会のプレイヤーとしてゲームに強制参加させられてしまうのです。

たとえ、その成年にプレイヤーとしてゲームに参加するべき能力が無くとも関係ありません。

そこで、見せつけられるのは圧倒的なプレイヤー間の力の差です。

大多数の人たちは、実家が太い家族の下に生まれたり、頭が良かったりする、「実力」を持つ人たちの引き立て役、脇役にしかなれません。

簡単に言うと、大多数の人たちは資本主義社会のプレイヤーとしてあたかも一人前になったかの扱いをされる一方で、扱いやすいカモとして実力のある人たちに利用される存在です。

特に、私のように田舎から特に何の支えや援助も得られずに都心で高い家賃に耐えながら働いている人たちはぶっちゃけ絶好のカモであり、都心をより輝かせるためのただの燃料でしかありません。

都心の楽しさを一生享受する余裕も与えられずに、主役の人たちのために税金や年金保険料を払うべきとされた存在です。

それだけにとどまりません。

脇役の人たちは、子供を産んでその子供にも同様に都心の燃料になってもらうべく高い教育費を消費させられその子供も高い税金や年金保険料を払ってもらうべくさらに働かなくてはならない存在であり、そのような事を繰り返しながらいつのまにか一生を終えるべきとされる存在です。

子供を育てて自立させるところまで含めて私たちは「生活」を日々続けているわけですが、その「生活」のために私たちは労働しなければならない立場に追いやられています。

私たちが「生活」のために労働しなければならないとき、まず真っ先にするべきとされるのはどこかの企業に就職するという行為に代表されるように労働力という商品を企業に営業活動によって販売する必要があります。

この営業活動は、俗に就活と呼ばれ、人によっては数年がかりの大変な苦労を伴うにも関わらず、すべての人が希望の企業に行けるわけではないというクソイベントです。

この営業活動が仮に失敗すると私たち労働者は大変な精神的苦痛を味わいます。

これはいわゆる、友達や親に顔向けができないという意味での精神的苦痛です。

その人にとっての唯一の売り物が労働力というそれ自体無味乾燥な商品である以上その「販売先」の優劣、善し悪しがその人の個性や人としての価値、キャラを決めているかのような錯覚を覚えてしまうのでしょう。

学生にとってはある程度自然な反応かと思います。

「販売先」の優劣を自慢材料にするのは、個人事業主の中で大手から仕事をもらっている人がそれについて謎の自慢をするのと似ています。

人によってはこのような精神的苦痛にとどまらず、自分にとっての唯一の売り物である労働力の販売に失敗したが故に「生活」のための金銭を得ることができずに少しずつ手持ちの貯金が減っていき、かといって労働力を廉価販売することも本人のプライドから許せずに、そのうち文字通り「死に至る」こともあります。

しかしながら、仮にこのような労働力という商品の営業活動が成功したとしても、それだけではその人が脇役であることには根本的に変わりありません。

むしろ、その人にとっての唯一の売り物が労働力である以上その「販売先」の個性によって友達や親に自分のキャラを示すことができていたのにもかかわらず、入社後にはその個性が消えてしまいます。

理由は簡単で、いわゆる職場の同僚というのは労働力の「販売先」が同じである以上、その点でもはや個性を発揮できなくなるのです。

これが優良な、世間体の良い内定先をゲットして入社するまではどや顔で友達にそれとなく自慢していたりしていた人が入社した後にはすっかり同僚や上司の前ではおとなしくなってしまったりする構造的な理由です。

さて、「販売先」がもはや変えられないことが運命づけられた普通の人、脇役の人はこの後どのような行動に出るでしょうか?

一つ考えられるのは職場の外に出てしまうことです。

合コンなどの場では職場という「販売先」の個性、キャラ付けという神通力をまだ使うことができます。

個性を発揮できない職場からの逃亡によってギリギリ自分の個性やキャラを確認できる瞬間ですね。

では、職場において個性やキャラを出すためにはどうしたらいいのでしょうか。

一つは仕事で活躍して出世をするという道ですね。

同期よりも頭一つ抜けるほど出世すれば職場においても係長、課長、部長などの名前のついた地位をもらえるのでこれで「個性」を示すことができます。

あとはボーナスの額の優劣などでもある程度示せるのではないでしょうか。

とはいえ、当たり前ですがこれは誰にでもできることではありませんし、同期よりも頭一つ抜けるほど出世するためには確実にそれなりのコストを払う必要が出てきます。

コストを払い続けて努力をしたとして報われるとは限らないのが出世競争の難しいところ。

では、出世競争の道が絶たれた人はどうすればいいのでしょうか。

まだ、職場において自分のキャラ、「個性」を発揮するために今度は差異的消費、顕示的消費を行うという道が残されています。

具体的には、●●というブランドバッグ、腕時計を買って自慢する、●●というところに旅行に行きましたという話をする、●●という良いところで●万円、●億円で新築マンションを買った、●という豪華な式場で結婚式を派手に行ったなどという話をして、facebookやインスタグラムに綺麗な写真とともに載せるという行為がこれに当たります。

これらはすべて自分という人間は他人とは違うという「個性」を示すための消費です。

このような「自分の素晴らしさ」や「他人との違い」を周りの人に見せつけるための消費を差異的消費と言ったり、顕示的消費と言います。

このような消費を自分はすることができて幸せであるというアピールを行うことで個性やキャラを示しています。

このように、労働力しか自分の商品を持っていない労働者というのは、その個性を発揮する機会が非常に限られており、その多くは金銭的、時間的コストを支払わないと手に入らないようになっています。

それにもかかわらず、そのコストを支払えるようにするためにさらに労働をしなければいけないというサイクルに入っているのです。

そうやって同じ所をぐるぐると回っていると、いつの間にか若さや時間を失い、どんどん未来が、可能性が、狭まっていくのです。

こうして、年を取るたびに楽しみが減っていく、閉ざされていく未来におびえる人生を歩むのが資本主義社会の脇役です。

労働者のままでは資本主義社会の主役にはなれないのです。

美紀のプロフィール
夢見がちな社会不適合者
mikimiki

社会人6年目かつ会社経営者(法人4期目)。
都内在住、マッチングアプリ上位0.0X%(上位3桁)の超人気女性会員。
フォーチュンレディ (Fortune Lady:幸運な女性)

かつて不登校になり片っ端から出席点を落としまくる。高校生の頃は家出経験も。
経済的自由のため、新卒で年収1000万円overのトップファームへ。
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