DV、いわゆるドメスティックバイオレンスの話を聞くたびに出てくるのが、「そのような人に見えない」という言葉です。
要するに、外面が良い人たちというのは世の中にたくさんいるようですね。
おそらく、素では優しい人とか、思いやりのある人でも何でも無いのに、職場とかでは生存戦略上頑張って優しさを振りまいているのでしょう。
なんというか、ご苦労なことです。
これは職場での評価みたいなものもあるので仕方が無いのですが、職場で無理をする、いわゆる気を遣いすぎているが故に、家に帰ったら力を使い果たして素に戻ってしまうということなのかもしれないですね。
私は特に社会人1年目の時に、職場の空気感のような物に慣れるまで気力疲れのようなものを感じていました。
したがって、年次を重ねたとしても、家に帰った瞬間に本性が出てしまう人がいたとしてもおかしくはないと感じています。
逆に言うと、特に公共の場での顔しか見ていない人に関して、その人が本当に優しい人なのか、頑張っている外面に過ぎないのか、これを見破ることができればDVも回避できるわけですが、これはおそらく相当困難でしょう。
社会で生きていくために、他者から評価されないと生きていけない労働者は、公共の場で失点することを何よりも恐れているのです。
労働者という立場は、雇用主という他人に評価されて、その評価に応じて雇用主に養ってもらえるわけですから、他者評価を気にせざるを得ません。
このような世界観に付き合っていると、まるで小学校の内申点を上げるために頑張る子供のようにいつでも自分に対して出される通信簿を気にし続けないと行けないのです。
そして、他者評価を気にし続けると今度は他人のために自分の人生や自分の時間を捧げ続けなければならなくなるわけです。
こうして、他人に運命を握られ続け、自分の運命を切り開けない人間ができあがるわけです。
そして、その代償として、家庭において不和が生じるのでしょう。具体的には、配偶者に労務をさせることで自分の時間を創出せざるをえないのです。
近年は、ワークライフバランスという概念が広がってきたせいか、仕事も家庭もという価値観が広がってきたようですが、そもそも仕事というセクションにおいて他人に振り回されているような生き方を選んでいる限り時間がいくら合っても足りないので、家庭に犠牲がつきまとってくるのもある意味必然です。
難しいところですが、配偶者選びの時には表面的に相手を見るだけでは足りずに相手がどのような社会構造の中に位置づけられているのか、という点から考察することも重要ではないかなと思っています。