「若者」ってそもそもなんだっけ?
と思うことが最近増えてきました。
若者というと、
「最近の若者は・・・・・・」
というフレーズで何かと言及されることが多い存在です。
それもあって、タイトルの本に興味を抱き、一通り読んでみました。
因みに、全部読むとそこそこのボリューム(322ページ)になりますし、学者らしいちょっと難しい言い回しが結構出てくるのでそこまで軽い本ではないと感じます。
真面目にこの本を読もうと思ったら一日以上は時間を取られると思った方が良いです。
パパッと読むのはちょっと厳しいかもしれません。
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この本でも冒頭の方で指摘しているのですが、
そもそも「若者」って話題になりやすいけど誰のことを指しているの?ということがかなり重大な問題になります。
そして、以下のように「若者」なるものを著者は見ているようです。
「若者の変化」として語られる多くのトピックは、<大人への移行=社会人としての自立>の内実が変容したこと、つまり、社会による若者の位置づけが変化したことにほかならない。
ざっと四半世紀にわたる巨大な社会変化が大人への移行期に揺さぶりをかけ、移行期の内実を変えてきたのであり、その現実に直面した若者は、この変化にそくした身の処し方を否応なく求められる。
「若者の変化」と映ることがらは、したがって、若者に対する社会の側の変化する位置づけとこれに直面した若者の「応答」(社会の求めに対する逸脱や不適応等も含め)との関係を示すのであって、「若者は~だ」(例えば、「最近の若者は打たれ弱い」等々)と、この関係を若者の属性であるかのようにみなしてはならない。
序章 社会の壊れ方・人間の壊され方より
「若者」とひとくくりにしてしまうと、どうしても
「○○歳~××歳ぐらいのひとかな???」
などと考えてしまいがちですが、
もはや実年齢の枠ではとらえきれなくなってきたと感じます。
いわゆる、商品開発をしたりする際にも、
「この商品は20代女性がターゲットです。」
などという形でまずは
年齢+性別
の形を基本形として、ターゲットとなる顧客を絞っていくのがオーソドックスな考え方だと思われますが、
私は個人的にこれはセンスがないと考えています。
すなわち、20代女性をターゲットにすると決めた段階で、30代女性や40代女性や50代女性はメインの顧客として想定しておらず、
さらにいえば、30代女性や40代女性や50代女性を20代女性なるものとまるで別個の存在だと考えていることを暗に表明している物と思われますが、
私のような現時点での20代女性の感覚としても、自分自身(20代女性)と50代女性との間に一体何の違いがあるのかかなり疑問を感じます。
だって、金額の多寡はあれどほとんど同じような生活をしていますからね。
もともとの性格の違いなどは確かに影響するかもしれませんが、
むしろ、女性の場合に重要なのは、年齢ではなく
「子どもの有無」
です。
何故かというと、子どもが居るか居ないかによってその人の金と時間の使い方が全く異なるからです。
お金や時間の使い方がその人の人生を決めます。
したがって、購買欲求が向かう先も現状では特に女性の場合には「子どもの有無」によって大きく左右されるでしょう。
そのため、ターゲットを決める際には20代女性とか、50代女性とか、そんな決め方ではなく
「子どもの有無」
で決めた方がおそらく精度を上げることができると私は考えています。
その上で、じゃあ、何故今まで
年齢+性別
の形を基本形として、ターゲットとなる顧客を絞っていくのがオーソドックスな考え方としてそれっぽく通用していたのかと考えていくと、
おそらくは
「○○歳だったら××しているべき」
という年齢による社会的規範が強く、それに応じた人生を歩んでいる人が多数派だったからでしょう。
またついでに言うと、
「男性(女性)だったら、○○するべき」
という性別規範、ジェンダーによる縛りも強く、今までもそれに応じた人生を歩んでいる人が多数派だったと思われますが、
女性の社会進出等色々あったので、この辺りもジェンダー規範そのものが揺らぎを見せています。
そもそも、性別も2つではなく「その他」というカテゴリーも出てきていますからね。
このような事情もあって、
従来では
年齢+性別
という手抜きとしか言い様がないザル設定でもなんとかなっていたのですが、おそらく今後はこのような発想は通用しないでしょう。
ここまでの話はいわゆるデジタルマーケティングに詳しい人ならば
「そんなの当たり前じゃん、今はペルソナ設定とかの方が重要だよ」
と思うかもしれません。
が、意外なことに金融機関などに話を持ち込み、行員さんと話をすると、この「年齢+性別」構文でのターゲティングを行う事が未だに当たり前だと考えているようです。
私の感覚としては「ありえない」と感じるのですが、
純粋にその人が遅れている可能性の他に、おそらくこのようなわかりやすい書き方をしないとそもそも稟議が通らないという内部事情等もあるのでしょう。
さて、話が大幅にそれてしまいましたが、
本の感想に戻ると、本書では、
「若者の変化」なるものに着目して色んな話を展開しているのですが、
しかし、これはもはや「若者」というよりは、一般的に大人と呼ばれるような世代においても同様の話が言えるのではないかと思われます。
すなわち、人間社会には色んな構成員がいて、その人達がお互いに起こす行動によって社会というものが一応成り立っているわけですから、そのような集団的な動きに対する何らかの反応をしなければならないのは一般的に「若者」と呼ばれている人たちに限らないわけです。
したがって、社会の変化に応じた何らか「応答」をしているのは「若者」にかぎらず、いわゆる大人にも言えることです。
そして、この「応答」の一形態として、本書では、「若者保守化」や「普通がいい」というラディカルな夢、なるものを扱っていると思われます。
そして、私の考えですが、そもそもこの「応答」には大きく分けると4つぐらいのパターンがあると考えています。
具体的には、
①社会や自分の周辺状況を変えるために何らかの「働きかけ」を行い改善を図る
②社会や自分の周辺状況は変えずに自分がその社会や状況から「離脱」することによって改善を図る
③改善は諦めて社会や自分の周辺状況の中で「迎合する」ことによって生き残りを図る
④改善は諦めるし、迎合することも能力的にできないため、すべてを諦め、そもそも「何も望まない」ようにする
いわゆる、改善や状況の好転を図るのが①②の類型ですが、この2つはやり方が異なります。
例えば、①の具体例として典型的なのは、政治家として立候補などをしてそのまま当選し自分が望む政策を実際に実行してしまうことです。
すなわち、自ら主体的に社会に対する「働きかけ」を行う事です。
本当に小さな行動なレベルになると選挙の際に自分が望む結果を得るために1票を投じるなどの行動も一応このカテゴリーに入るでしょう。
「働きかけ」という言葉からも分かるとおり、残念ながら自分一人でなんとかすることが可能な類型ではなく、他者とのコミュニケーションが必然的に要求されます。
端的に言うと、一番難易度は高いでしょう。
次に、②の具体例ですが、これは典型的にはFIRE、すなわち経済的自由の達成を行ってしまい、勤め先から退職してしまったりすることです。
もっと小さなレベルの行動でいえば、転職したり、独立することも一応このカテゴリーになるでしょう。多分。
すなわち、悪い状況から何らかの手段で「離脱」してしまうことによって改善を図る動きです。
「離脱」というくらいですから、自分一人の能力さえあれば好きなタイミングで②を実行できるというのがメリットです。
①のように他者とのコミュニケーションを行う必要性が全くないので、コミュニケーション能力に自信がないが、しかし、なんとか改善を図りたい人向けの手段です。
しかしながら、こちらも「自分一人の能力さえあれば」と書いているとおり、何らかの能力やスキルが備わっている人でなければそもそも事実上実現できないという点が難しいところです。
それでも、①よりは②の「離脱」の方が楽に達成できると思われます。
やはりコミュニケーションが必要ないという点が大きいです。
いわゆる一匹狼的な人はこのような方法を選ぶ可能性が高いと思われます。
しかし、↑でも書いているとおり、金やスキルという形で「自分一人の能力がある」という状況を創らないと詰みます。
以上のように、何らかの形で改善を志向するのが①②ですが、
逆にそんなことを期待していない反応、「応答」が③④の類型になると考えられます。
③の典型例は、親からの期待などを始めとした現在の社会からの要請に何とか答えるための努力は惜しまないようにし、いわゆる社畜のような働き方で定年までなんとか会社にぶら下がろうとする動きです。
親や社会からの要求に対してそのまま「迎合する」ことによって生き残りを図ります。
このような人たちは対外的には「素直な子」「面倒な点がない人」という意味で評価をされていることでしょう。
しかし、恐ろしいのはそもそも社会からの要求に対して「迎合する」ための能力が必要になる点です。
例えば、リモートワークなどもってのほかで週5日出勤は当たり前という会社があったとしたら、週で連続5日出勤するだけの体力がない人はこの時点でもう詰みます。
いわゆる、「毎日同じ時間にしっかりと出勤できない、普通の人とは異なる社会不適合者」という扱いを受けることになるでしょう。
そして、昔はともかくこの社会から要求される「普通」のレベルが近年恐ろしい勢いで上がっています。
発達障がいなどという言葉なども出てきているように健常者に求められるレベルがコミュニケーション能力に及ぶ範囲まで補足され、色んな人を苦しめていると感じます。
そのような能力がたまたまある人は③のルートでも生き残ることは可能でしょう。
しかし、そんなものは残念ながら自分にはなかった、という人が現実には増えているのではないか、と感じます。
結果的に、④の類型「何も望まない」に落ち着くことになります。
すなわち、全てを諦め、そもそも「何も望まない」という戦術をとって、取りあえず生きている状態だけは確保しているという状態でしょうか。
本書が扱っている「若者の反応」は、おそらく主に③④の類型だと考えられ、特に改善を志向しないからこそ「若者の保守化」と言われるのだと思われます。
因みに、③においてもコミュニケーション能力が要求されると書きましたが、これと①において必要になるコミュニケーション能力は同じ言葉のくせにその質が全く違うという点に注意が必要です。
上記を見ると、やはり①②の類型のような改善を志向するアクティブな行動を行うためには一定レベルの能力や目標に対する情熱が不可欠なので、そのようなものがなければ自然と③④のルートに行くことになるでしょうね。
あるいは、③④の人の身近には①②のようなことを行っている人がそもそも存在しないのかもしれません。
①②を現実的にできる人はおそらく数がかなり少ないのでこれは仕方がない部分があるかもしれません。
いずれにしろ、私は、本書を読んで、このような①②③④による「応答」の中からそれぞれ自分に合った処世術を皆はそれぞれ選んでいるのだろうな、ということをまずは思いました。
前述の通り、本書は保守化したとされる「若者」について多くの側面から丁寧に分析を試みています。
少子高齢化の影響で日本における全体人口における割合が減ってきているという現実がある以上、今後「若者」なる人たちがどこまで重要視される社会になっていくのかは個人的には疑問を感じるところです。
しかし、「若者」なる人、すなわち、「死亡するまでの時間が比較的長いことが期待できる人々」はそれだけ残り余命という掛け替えのない財産を持っている存在でもあるわけですから、理論上はその分色んな人生を歩むことが可能な存在でもあります。
そういうこともあるので、どうせ生きていくのであれば①②の方向性を目指したいというのが私の発想です。
そういう意味で本書における分析対象に私自身のような人はあまり想定されていないのではないか、ということも感じました。
そのような事も感じつつ、③④などの他の処世術を積極的に選んでいる人はこんなことを考えていたり、こんな状況にあるのかな?ということを考え、深めたりするのには良い本でした。
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