祈り。
その真価は一体どこにあるのか。
そんなことを時折考えます。
祈りと言えば、様々な宗教でも採用されていることから、何らかの価値がそこにあるのではないか、と私などは考えているわけです。
しかし、その一方で、
「とはいえ、祈ったところでぶっちゃけ状況は何も変わらないのでは?」
といった冷めた視線を向けることもこれまでにありました。
しかし、最近一つ思うのは、
「祈るという行為は、自分がコントロールできない事象に対する対処方法として実は適切なのではないか」
ということ。
世の中には、自分自身でコントロールできる範囲よりも、コントロールできない範囲の方が多かったりします。
具体的には、
災害はいつどこで起こるのかはわかりませんし、
恋愛相手が急に翻意をすることもありますし、
株式が突然暴落することもあります。
これらの事象は
「自分としては、どうすることもできない」
という状況だったりします。
しかし、多くの人は、このようなコントロールできない事象に対しても、ついつい気持ちを取られてしまいます。
そして、やり場のない気持ちを抱えてしまい、感情を暴走させ、メンタルを崩します。
本来ならばコントロールできない事柄に徒に関心を寄せること自体が無駄である可能性が高いのにもかかわらず、
「重大なトピックなのでついつい気になってしまってメンタル崩し、時には暴走する」
といったことすら起こす可能性があります。
このように、湧き上がってきた情動をどうすればいいのか、どこに怒りなどをぶつければいいのか、といった事態だからこそ
祈る
という行動はその沈静化に役立ちます。
祈るという行動は傍から見ると特に何もしていませんが、
気持ちを一定時間念じることによって、本人の中にぐつぐつと湧き上がってくる感情を発散させているのでしょう。
そして、祈りが終わり、神父さんから
「これだけ祈ったのだから」
と言われたら、
「やるべきことはやった」
という気分にもなることでしょう。
実際には、良くも悪くも何ら行動をしていないのにもかかわらずです。
これによって、
「余計なことをしにくくなる」
という効果もあるのが祈りの良いところなのでしょう。
自分がコントロールできないはずの事象に無駄に突っかかったり、暴走したり、自爆することで事態をより悪化させる人もいるため、
祈りだけでこれらが回避できるというのは、地味ではあるものの、なかなか大きいと感じます。
実際のところ、
「余計なことをしない」
「一旦、忘れる」
ということ自体が大きな効用をもたらすことは世の中には意外と多いのです。
しかし、いざ実行しようとするとこれが意外と難しい。
重要な事柄であると感じれば感じるほど逸る気持ちを抑えられなくなってしまう人もいるでしょう。
自分のコントロールできない事象に対する姿勢を如何にするべきか?
ということは理屈ではわかっていても、実際には、感情がついてこないことも多いのです。
「理屈は頭ではわかっているけど、なかなかできない」
それゆえに、
祈り
という行為には、長年の間認められてきた価値があるのかもしれません。