人生においてはあらゆる事象が発生しますが、それに対して、どう捉えるのかによってその人の人生は変わります。
例えば、一見して嫌なことが起こって、不機嫌になってしまったり、ネガティブな思いに駆られることもあるでしょう。
しかし、そのような事象が発生したことがその人にとっては教訓になったことでその先のより大きな難を避けることが可能になったという場合もあるものです。
「噂には聞いていたけれども実際に経験してみて初めて今後に生かせるような実感までできた」
ということもあり得るでしょう。
そのため、ちょっと嫌な感じの出来事があったとしても、それは長い目で見ると、そこまで悪い出来事ではなかったと評価されることがあり得ると思われます。
これと関連して、かつて、私は
「あなたは厳しめな意見も出すけれど、あなたに指摘されたり、苦言を呈してもらえる人は実は幸せ者だ」
というコメントをいただいたことがあります。
一般的に、
「他人から指摘をされる」
とか
「他人から苦言を呈される」
といった出来事が起こったら、そこまで心穏やかにいられる人は少ないでしょう。
人によっては、
「なぜ、そこまで言わなければならぬのか」
といった反発心が芽生えてもおかしくはないシチュエーションです。
しかし、よくよく考えると、
「他人から指摘をされる」
とか
「他人から苦言を呈される」
といったことはなかなか起こることは少ないです。
むしろ、
「相手の気分を害したがそれに対しては何も言われぬままそれとなく距離だけを取られる」
という形の対応を取られることが圧倒的に多いはずです。
このような対応をされると、一見すると何も嫌なイベントは起きていないのですが、
企業で言えば、例えば、
「あれ?最近、お店に来てくれるお客さんが減った……?」
「最近、取引先からの契約更新拒絶が多いような……?」
といった形で現れ、売上などがどんどん減っていく、といったことが起こりかねません。
しかも、客足が離れてしまったその原因は誰も教えてはくれないのです。
ヒントがないがゆえに、
「何故、お客さんから見放されてしまったのか」
ということを少ない心当たりから推理していくしかないのです。
その推理も当たっているかは誰にもわかりません。
しかし、真正面から、文句を言ってくれるお客さんは黙って見放してくるお客さんに比べれば何を考えているのかがわかりやすいです。
それゆえに、不満点も把握しやすいでしょう。
そのような不満をどこまで斟酌するかは、受け取り手の判断になりますが、何もヒントがない状態から手探りでどうしようかと考えるよりははるかに判断のためのまともな材料が手元に揃っているのです。
このように考えると、
そもそも、他人から指摘などをされるということは、文字通り、
「有り難い」
と言えるでしょう。
そして、そのような指摘は時に
「聞きたくない」
と感じるものもあるのかもしれませんが、
数年後には、
「やはり、これが原因なのだから直さなければ」
と思い直すきっかけになるのかもしれないのです。
そのように考えると、私がかつてコメントされたように、
「あなたは厳しめな意見も出すけれど、あなたに指摘されたり、苦言を呈してもらえる人は実は幸せ者だ」
というのもそう考えることが可能なのでしょう。