社会には、あたかも「正解」があるかのように提示される行動や選択肢が数多く存在します。たとえば、「いい大学に入るべき」「保険には入っておいたほうが安心」「留学すれば視野が広がる」といった言説は、一定の説得力を持ち、多くの人が無意識にそれらを人生の成功に繋がるステップだと認識しています。
しかし、こうした“社会の正解”は、本当に一人ひとりの人生にとって合理的で最適な選択なのでしょうか。多くの場合、人々は「なぜその選択をするのか」「それは本当に必要か」といった本質的な問いを深く考えないまま、その“正解”に従い、結果的に構造的な誤解や非効率なコスト負担に巻き込まれてしまうのです。
以下では、具体例を交えながら、こうした現象がどのようにして起こるのか、そしてそこからどのような教訓を導き得るのかを考察していきます。
保険:リスクの本質を問わずに安心感だけを買う構造
たとえば、がん保険を例にとってみましょう。がん保険の広告は、「もしものときに備えておきましょう」というメッセージで不安を煽り、加入者に“安心”を提供します。しかし、多くの人は「がんになったら、保険金が出るから安心」という漠然とした期待だけで加入を決めてしまいがちです。
問題は、保険が本当にカバーすべきリスクに対する明確な理解が欠けていることです。がんの予防や早期発見の方法、医療費の実態、公的医療保険制度との重複などを理解した上で判断している人は決して多くありません。結果的に、実際に必要な医療費とは噛み合わない保険商品に高い保険料を払い続け、トータルでは損をしているケースも少なくないのです。
このように、「安心」という抽象的な感情に訴える仕組みの裏で、構造的には“高コストな自己満足”が発生しているのです。
学歴:成果の定義が曖昧なままの過剰投資
「良い大学に入ることが人生の成功につながる」という価値観も、典型的な“社会の正解”です。確かに、高学歴が一定の雇用機会や社会的信頼を得る手段になっているのは事実です。
しかし、教育投資の費用対効果は年々変動しており、今や「どの大学に入るか」よりも「その後に何をするか」がはるかに重要になっています。にもかかわらず、多くの家庭では大学進学という目標そのものが神聖視され、数百万〜数千万円規模の教育費が投じられます。
その先で実際にどのような知見を得たのか、どのようなネットワークや視野を得られたのかという点について、投資効果を計測したり、振り返ったりするプロセスが欠けているケースは少なくありません。努力は報われると信じて突き進んだ結果、「やりたいことが分からない」「結局、どこかの会社の歯車になってしまった」という空虚な思いに繋がってしまう人もいます。
学歴はあくまで手段であり、何を得るかが本質であるという視点が欠けていると、莫大な教育投資が、自己目的化された“儀式”にすぎなくなってしまうのです。
留学:異文化理解という幻想とそのコスト
「留学すればグローバルな視点が得られる」「語学力が向上する」という理由で、若年層の留学は肯定的に語られがちです。しかし、留学の本質的な価値は、単なる語学習得ではなく、現地の人々との関係構築や、異文化の中での適応経験にこそあります。
ところが、多くの留学経験者が「現地の日本人とばかりつるんでいた」「現地の大学では授業についていくのが精一杯だった」と語るように、実際には異文化への適応や本質的な内省に至らないまま、コスト(数百万円規模)だけが発生することも珍しくありません。
「留学経験がある=グローバル人材」という形式的な価値付けを信じた結果、その内容に対する検証や省察が行われず、単なる“高価な経歴の装飾”にとどまってしまうのです。
なぜ人々は“社会の正解”を疑わないのか
こうした例に共通しているのは、「問いを立てることの不在」です。
「なぜそれをするのか?」
「それは何を解決するための手段なのか?」
「他の選択肢と比べたときに、どれほど合理的なのか?」
こうした問いを持たないまま、“正解らしきもの”に従うことで、人は安心感を得ます。逆に、自分で問いを立てて考え始めると、正解のない不安定な世界が広がり、責任が重くのしかかってきます。
だからこそ、多くの人は「考えないほうが楽」である道を無意識に選び、“正しそうな道”に乗ってしまうのです。
人生の教訓:問いのない選択は、構造的な搾取に繋がる
最終的に私たちが学ぶべき教訓は明確です。
**「問いのない選択は、構造的に搾取される運命をたどる」**ということです。
保険も学歴も留学も、「なぜそれが必要か」「自分の目的に照らして本当に価値があるのか」という問いを立てなければ、私たちは簡単に高コストな幻想を買わされます。そしてそれらは、何かを“解決したつもり”にさせてくれるがゆえに、根本的な課題解決をさらに遠ざけてしまうという、二重の損失を生むのです。
社会が提示する「正解」は、すべての人にとって最適なものではありません。むしろ、“正解”として語られているがゆえに、思考停止の温床になりやすいという逆説を含んでいます。
だからこそ、本当に重要なのは「問いを立て続けること」です。問いを立て、自分の文脈に照らして考え抜いた選択であれば、たとえそれが社会の“正解”とは違っても、自ら責任を持てる人生が築かれていきます。
本質的な問いから逃げないこと。それこそが、構造的な搾取から自分を守り、真に納得できる人生を歩むための唯一の道なのです。