社会的な評価や人間関係において、「間違わないこと」は美徳とされがちです。特に、学校や職場における成功体験を通じて「正確に答えること」が高評価に直結してきた方にとっては、間違うことへの忌避感が自然に身につきます。その結果、無難で正確な言動を意識的に選ぶ習慣が形成されていきます。
しかし、「正しい」ことを言っているにもかかわらず、なぜか周囲の反応が薄い、議論が広がらない、あるいは印象に残らない——そんな感覚に陥った経験がある方も多いのではないでしょうか。それは、「間違ってはいない」という安心感の裏側に、理解の深まりや他者との真の対話を閉ざしてしまう構造的なリスクが潜んでいるからかもしれません。
無難な正解がもたらす“対話の終わり”
例えば、「当社は社会的責任を果たしながら持続可能な経営を目指します」という発言は、企業の経営方針として間違いではありません。むしろ、多くの会議や報告書で好まれる「正しい言葉」です。しかし、このような文言を聞いたとき、相手は何を思うでしょうか。
「どのように持続可能なのか?」「その“社会的責任”とは何を指すのか?」といった問いを投げかけようとしても、その糸口が見当たらない。言葉としての“正しさ”はあっても、問いかける余地が少なく、対話の火種となる“ほころび”がないのです。これは、一見「誤りのない言動」によって、他者からのフィードバックや深い思考のチャンスが奪われてしまう典型例です。
学びの契機としての“誤り”
一方で、「社会的責任って、正直まだちゃんと定義しきれてないんですけど…環境への配慮や地域への貢献って大事ですよね」といった発言は、不完全であるがゆえに周囲の反応を引き出します。「それって、たとえば地域へのどんな貢献を考えてますか?」というように、会話が生まれる余白があるのです。発言者自身も、他者からの問いかけを受ける中で、自分の考えがどこまで定義されていたかに気づき、言語化の訓練にもなります。
このように、「正確であること」は必ずしも「学びの多さ」に結びつきません。むしろ、少しの不完全さや曖昧さがある方が、フィードバックが得やすく、深い理解に向けた探究のきっかけになりやすいのです。
「間違わない癖」がついた人が陥りやすい盲点
特に注意が必要なのは、学生時代から「正解を出すこと」で評価されてきた経験のある方です。模試で高得点を取る、試験問題に模範的な回答を出す、議事録を端的にまとめる——そのような能力は確かに社会でも評価されやすいものです。しかし、その延長線上で「間違えないこと」が習慣化してしまうと、「問い直す力」や「答えのない課題に耐える力」が育ちにくくなります。
言い換えれば、「正しいが浅い」言動にとどまる傾向が生まれます。これは、表面的には好印象を与えていても、長期的には「考える力」の停滞や、「構造をずらす発想」の欠如につながりかねません。
むしろ「間違え方」こそが重要
ここで言う「間違え方」とは、単に無知や軽率さから来るエラーではなく、「考えた上での仮説的な発言」や「言語化の訓練としての未完成な発話」を含みます。こうした“安全なリスクテイク”を繰り返す人は、他者からのフィードバックを受けて、自分の理解を何度も更新していくことができます。
誤りのなかには、自分自身の盲点をあぶり出し、より高次の理解へと誘う“贈り物”が含まれていることがあるのです。逆に、「正解のようでいて、何も更新されない発言」は、その瞬間の自尊心は守ってくれるかもしれませんが、長期的には自分を閉じ込めてしまいます。
人生の教訓:学びたいなら「正確さ」より「接続性」
「間違っていないこと」自体は悪ではありません。ただ、それが“対話を遮る構造”になってしまうとしたら、学びという観点から見ればむしろ損失です。現代の複雑な社会では、正解が一つでないテーマや、価値観が衝突する領域がますます増えています。そうした場面では、「正確に語る」よりも、「どこまで伝わったか」「どこが伝わらなかったか」を確認する姿勢の方が、より深い対話と成長をもたらします。
だからこそ、たとえばこんな問いを自分に投げかけてみることが大切です。
- 今の自分の言葉は、誰かの理解の解像度を上げるものだろうか?
- あえて未完成な状態で出すことで、他者からの問いや共鳴を呼び込めないか?
- 間違えることを避けすぎて、実は思考の筋力を弱らせていないか?
「正しいことを言わなければならない」という強迫観念を手放すことで、ようやく本当の意味での“知的な冒険”が始まるのかもしれません。
無難な正解よりも、問いを呼び込む“勇気ある未完成”こそが、あなたを次のステージへと導く鍵になるのです。