「事実と評価は違う」
とよく言われますよね。
例えば、現時点で東京の気温が摂氏マイナス一℃だったとします。
気温が摂氏マイナス一℃であるというのは事実ですよね。
これに評価を加えるとしたら、多くの東京在住の人は
「寒い」
と評価を加えるのだと思います。
寒いなどを始めとした評価はたとえば形容詞や副詞という形で付与されます。
副詞の場合は、
「私は早く帰宅した」
「私は遅く帰宅した」
などの文章がありえますよね。
ところで、このような評価のつけ方、すなわち意味合いを与える際には、何らかの根拠が必要になります。
すなわち、「東京の現時点の気温は寒い」と評価する場合には、
何故、「寒い」と評価できるのか?
が問題になります。
例えば、気温が摂氏マイナス一℃といっても、一年の平均の気温が摂氏マイナス10℃の世界で生きている人がこの事実を眺めると、
「いつもよりも暖かい」
という評価をするはずです。
なぜならば、彼らの中では摂氏マイナス10℃というのが「普通」であって、それと比べると摂氏マイナス一℃は暖かいという話になるからです。
すなわち、評価を行う際の根拠には、評価をする側が持つ何らかの比較対象が出てくるわけです。
例えば、仕事の評価においても、
自分が2時間で10の仕事量を終わらせたりすることができるという事実があったとしても、
上司が同じ年次の時に2時間で20の仕事を終わらせることができる人であったり、同期が2時間で12の仕事量を終わらせることができている場合には、大して評価されない可能性が高いでしょう。
これは比較対象の方が優れているため、その存在を根拠として比較されて「大して評価できない」とされてしまうためです。
このようにただの事実に評価を与えるためには何らかの比較対象となる事実が必要になります。
ところで、
「毎日同じようなことばかりやってて日常生活が色褪せて見える……」
とか
「毎日同じような仕事ばかりやっていて、単調でつまらない……」
とふと感じてしまう人は多いのではないでしょうか?
これはそれぞれ一つ一つの行為に差がないと感じてしまうため、「同じ」という評価しかできていない状態です。
昨日やっていた仕事と今日やっていた仕事に差が感じられないため、「同じことしかやっていない」という評価になってしまうのですね。
そうすると、
「同じような仕事ばかりしかできない、このまま無為に年を取っていくだけなのか……? これずっとやっていて自分にとって意味があるのか……?」
と感じやすくなるでしょう。
しかし例えば、クラスのAさんとBさんがそれぞれテストで59点と60点を取った時のように
「どんぐりの背比べではあるものの、微妙に違いはある」
という状態になっている可能性があります。
テストで100点をとっているクラスのCさんから見ると、クラスのAさんの59点もクラスのBさんの60点も大差ないようにしか見えません。
しかし、確実にいえることはAさんよりもBさんの点数の方が高いという評価ができるということです。
AさんとBさんの点数を比較対照するとこのような話になります。
同じような話で、
先月貯金10万円だった人が今月貯金が11万円になった場合というのがあります。
この事実について確実に言えることは、その人の貯金額が前よりも増えた、ということです。
確かに、たったの一万円しか増えてないと考えることもできるのですが、しかし、本人にとっては先月から見ると明らかに進歩しています。
このまま一万円が増え続ける状態が続けば少しずつではあっても確実にその人の人生は好転しているでしょう。
このように同じ人の中であっても、前の時点における事実と、今の時点における事実が少しでも異なっていれば、それには評価を加えることができます。
そして、このように前の自分の状態と今の自分の状態とで微細であっても事実に違いを見出すことができれば、今まで色褪せていたと感じていた日常生活や仕事においても意味合いを見出しやすくなるでしょう。
仕事においても、今まで同じような仕事だと感じていたとしても、ほんの少しの微細な違いを見つけることができれば、自分の仕事能力の向上や成長といった意味合いを与えることが可能になります。
そして、他人に「前よりも良くなったな」と評価されるのを待つのではなく、自分自身でこのような一つ一つの事実における違いを見つけて自分自身でその意味合いを与えることができるスキルが身につけば、色褪せた日常生活においてもどんどん意味合いを見つけ出すことが可能になるでしょう。
このようなスキルが身につけば、どんな状況にあっても自分の人生の意味合いを自分自身で創り出すことが可能になるため幸福度が上がると考えられます。