「ちょうどよい」
という詩があるらしいです。
作者は色々な説があるらしいですが、住職の奥さんである「藤場美津路」さんという方だとか。
お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸もよろこびも悲しみさえも
丁度よい
歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連の人生
丁度よくないはずがない
丁度よいのだと聞こえた時
憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏
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上記の詩を読んで、
「ちょうどよい」
という言葉を見ると、
「あなたはありのままでいいよ」
「あなたは無理しなくていいんだよ」
という耳障りの良い言葉のように見えることもありますね。
しかしどうやら、作者の意図はそのような肯定的な捉え方にあるわけではなく、仏教観に根差したもののようです。
仏様のいう「ちょうどよい」は「あなたにはそれしかないのですよ」という意味に近く、
他人から言われたり、自分で悟るというのではなく、仏様という絶対的な存在からそう指示されることに意味があるという意図があるようで、
「あなたにはあなたの道しかないのだから、ここをしっかりと歩みなさい」
という形で、あたえられた自分の道をしっかりと歩むことを絶対的な存在から指示されることにあるようで、
決して、
「無理しなくてもいいんだよ」
などという形で楽を促す意図ではないようです。
むしろ、与えられた道をしっかりと全うしなさいとまで言われているかのようなニュアンスがあるようですね。
このような意図を見ると、個人的には、
「自分で悟ることすら許されないのか」
などとちょっとした衝撃を受けました。
これは例えば、田舎などでゴミ収集の仕事やその他共同体のために仕事を毎日している人が、
「他の職業を仕事にしている人がうらやましいなあ」
と感じていたとしても、
「歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない」
「お前にとって丁度良い」
と言われているような感覚がありました。
いわゆる
天職
というのは
calling
とも訳されるものであって、これは神様などといった絶対的な存在からの呼び出しにかかるもの、というニュアンスがあるようです。
「お前にとって丁度良い」
といわれた内容がその人にとっての道になる、ともいえるでしょうか。
詩の作者自身もこの詩を詠んでから心が楽になったところがあったようですが、
このように、何かしらの絶対的な存在からの指示があるということがある種の安心感を与えてくれるのかもしれません。
むしろ、昔のように生まれながらに職業が決まっているのではなく、職業選択の自由といったものが生じたからこそ、
「他の職業を仕事にしている人がうらやましいなあ」
「今の自分の仕事で本当にいいのだろうか?」
などという余計な悩みが生じてしまったのかもしれないですね。
しかし、何らかの形で、
「これが私にとっての『道』であろう」
といった形で、自分の歩みに納得感、確信を得られればこそ、
人は前を向いて人生を歩んでいくことができるのかもしれません。
そういった意味で、
仏教などを始めとした「自分にとって絶対的な存在」に「あなたの道はこれですよ」と指示されるのはある意味、安心して、自分の道を確認できる、納得できる、といった意味で非常に便利かもしれません。
それほど、
自分自身の力だけで「これが私にとっての『道』であろう」などと確信を抱くのは極めて難しいことなのかもしれません。
確信を抱くまでに長い時間がかかったり様々な葛藤があることを想像すれば、
このような
他力本願
にも一定の価値があるのかもしれないですね。
そのようなことを思いながら、
しかし一方で、
「でも、難易度が高そうだけれども、それでも、自分自身で悟ることができたら一番良さそう」
などとということを私は感じました。