目の前にすごい人がいて、その人が常人(あなた)にはできなさそうなすごいことをしていたらどう思うでしょうか?
多くの人は、
「すごい才能だ」
と思うのではないでしょうか?
例えば、フィギュアスケートをやったことがない人が、フィギュアスケートの選手の4回転ジャンプを見たら、
「すごい」
と思うでしょうし、同時に、
「すごい才能だ」
と思うでしょう。
スポーツの世界に限らず、
例えば、
あなたが永遠に悩んでいた問題をいとも簡単に正答する人や、
普通に考えていたらわからないような難問を当たり前のように解いてしまう人を見かけたら、
「すごい才能だ」
と感じることでしょう。
人はあまりにもすごいものは見せつけられると、
それを難なくこなすことができている人を見て、
「この人はなんかすごい才能があるんだなあ」
と思ってしまうものです。
よくよく考えると、
4回転ジャンプを難なくこなすことができるフィギュアスケートの選手というのは、それを他人に見せる以前の段階で何度もその練習をしているでしょうし、
難問を簡単に解くことができる人は似たような問題を常日頃から考えたりしているでしょうから、
純粋な才能、すなわち、天性によってすごいことができているわけではないはずなのですが、
あまりにも自分とはかけ離れたことができる人に対しては、そのような過去の蓄積が全く見えないので、
「すごい才能だ」
などと感じてしまうのですね。
これは、絵描きの人が高度な絵をサラッと描いていた時などにも感じることでしょう。
実際には、何十年とその人が絵を描き続けてきたという過去の蓄積の結果だったりするのですが、
初対面の段階ではそのようなものは見えません。
多くの場合、
私たちが
「すごい才能だ」
と感じるものはその人の過去の膨大な蓄積や試行錯誤による結晶のようなものです。
その土台には間違いなく、似たような動作を繰り返す習慣の力があります。
絵描きの人には絵を書く習慣があるでしょうし、
フィギュアスケートの選手には練習をし続ける習慣があるでしょうし、
難問を解き続ける人というのは似たような難問を解き続ける習慣があるでしょう。
このような習慣の存在の上で、その過程で得られた過去のデータの蓄積や、試行錯誤によって、その習慣はさらに強化されていきます。
こうして、今までに1日に1回しか頑張らなかったことを2回以上頑張ったり、
一週間に一度しか頑張らなかったことを2度以上頑張ったりすることで、
試行錯誤や過去のデータの蓄積スピードがさらに上がっていきます。
習慣が強まるごとにいわゆるPDCAの回転数も膨大な物になるでしょう。
そして、その積み重ねによって、その習慣はさらに強化され、洗練されていきます。
このような繰り返しによって、習慣は第二の天性としての力を発揮するようになります。
こうして、
高度に洗練された習慣は「才能」のような輝きを放つようになるのです。
才能というのは一つのあこがれの存在でしょう。
「私にもあの人のような才能があったらよかったのに……」
というのは誰しも考えたことがあると思います。
そして、何かをやってみてもパッとした結果がすぐに出なければ、
「やっぱり、自分には才能がなかったのかな……?」
と考えてしまって、挫折してしまうこともあるでしょう。
しかし、
私たちが才能のように感じる部分というのは実は高度に洗練された習慣によって作られた結晶のようなものですから、
難易度が高い物であればあるほど、それが形作られるまでに長い時間を要することになるでしょう。
他人から見て、
「すごい才能だ」
と感じられるようなレベルまで技能を上げる必要があります。
これは、
すぐに手に入れることができない
という意味では私たちを失望させかねない物ですが、
しかし、そのように感じる人が多ければ多いほど参入障壁が高いということを意味しています。
そして、参入障壁が高ければ高いほどその「才能」には希少価値があります。
そのような「才能」に対するあこがれの気持ちがもしあるのであれば、
高度に洗練された習慣
を積み重ね続けるといった生き方も楽しめるのではないでしょうか?