「観」
という漢字があります。
この漢字は様々な使われ方をしています。
世界観、
人生観、
死生観、
価値観、
仕事観、
労働観、
恋愛観、
などなど……
ここでいう「観」の漢字の意味合いは「見」とは異なります。
両方とも視覚的な意味を持つ漢字ですが、
見るの方は、
対象を表面的にとらえるのみですが、
観るの方は、
対象のより本質的なところまで観るというニュアンスがあるようです。
例えば、宮本武蔵は見るということについて、「観」 と「見」の2つの見方があるといい、
通常のはたらきを持つ「見の目」と、心眼ともいうべき「観の目」を区別していたとされています。
「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの意味であり、表面的で常識的な見方をいいます。
一方、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味であり、仏教では、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透す智慧のはたらきを「観」というらしいです。
色眼鏡という言葉もありますが、
「観」
という言葉は、その対象をあなた独自の「〇〇とはこういうものだ」というフィルターのようなものを通して捉えていると意味していると言えるのでしょう。
「人生とはこういうものだ」
「世界とはこういうものだ」
「恋愛とはこういうものだ」
「仕事とはこういうものだ」
「社会とはこういうものだ」
というフィルターが私たちの中に無意識に存在しており、そのフィルターを通して物事を見ているわけですね。
したがって、たとえ、同じ物を見ていたとしても、人によって異なる「観」を持っている場合、受ける印象や捉え方が全く変わることもあるのです。
錯視の場合は本能的に捉え方が脳によって定められがちですが、
多くの場合は、
あなた自身の小さいころからの経験によって
あなた独自の「観」
がいつの間にか出来上がっていることが多いです。
例えば、幼少期から親から虐待を受けていた人などは、
「自分は愛されていない」
という観念を持つようになり、それを大人になっても引きずることになる場合もあります。
これによってその人の
人間観
が決まっているわけですね。
また、周りの人たちの影響を受けて、その人独自の「観」が形成されることもあります。
「社会では○○するのが当たり前だ!常識だ!」
などと勤め先の上司や先輩に説教されることがあったとしても、
実は〇〇しなければいけないのは社会ではなく、その勤め先の限りだったりすることもままあります。
そのような人が、いったんその勤め先から外の世界に出てみると、
「〇〇なんて普通にしないよ。あなたの会社だけの常識でしょ?」
と指摘されることもあり、それできっかけでその人が持っていた固定観念が解除されることもあります。
あなたの持つ固定観念が解除され、
「観」
がアップデートされたとき、あなたはさらなる成長のきっかけをつかむことができるのです。
「観」のアップデートは、喩えるのならば、OSが最新版にアップデートされるようなものです。
最先端のOSを持つあなたの理想の人物の考え方などに影響を受けて、一度あなたの「観」がアップデートされると元の考え方に戻ることは基本的にはありません。
たとえ戻るとしても、それは元の「観」を改善し精緻化されたものになるでしょう。
それは平たく言うと、「思い込み」の修正とも呼べるものでしょう。
そして、「観」のアップデートは異質の他者や理想の人物と出会うときのみならず、
あなた自身の周りの状況が変わった際にも起こり得るものです。
例えば、
仕事観
や
労働観
などは経済的自由の度合いが高まるにつれて「観」が変わりやすいものと言えるでしょう。
「生きていくためにはお金が必要、だからお金を手に入れるためには労働しなければいけない」
という労働観を持っている人が、
実は、経済的自由を達成し、不労所得ないし資産所得だけで生活をすることが可能である
ということを実感をもって知った時、
その人の労働観は大きな変貌を遂げることになるのです。
そして、
「自分にとって労働とは何か?」
「自分にとって仕事とは何か?」
という自問自答に迫られることになるのです。
経済的自由を達成するのは長い道のりになることもありますが、このように自分の状況が変わっただけでも、「観」がアップデートされることになるのです。
あなたの人生はあなたの持つ「観」で決まるのです。
これは、
あなたが自分の人生をさらに変えたい、飛躍させたい、進展させたい、と願った時には、何らかの形で、
あなたの持つ「観」を変えるのが手っ取り早い
ともいえるでしょう。
あなたの人生はあなたの持つ「観」で決まるのです。