私たちが日々過ごしている人生ですが、油断していると
「いつの間にかすぎてしまった」
ということになりかねません。
何かを頑張っていたはずなのに、仕事をしていたはずなのに、家事を頑張っていたはずなのに、なんだかよくわからないままに1日が過ぎてしまった。
このような感覚になることは、私にもよくあります。
特に仕事をしていて、「これをやってください」「あれをやってください」などと色々飛んでくると通常それに対応する必要が出てきます。
そうして対応していると、「頑張らなきゃ」と反射的に思い始め、それを遂行するのですが、ちまちま対応しているとこれをやっているだけで一日が終わります。
そして、「あー今日も疲れた」などとつぶやきながらベッドに入り、そして、次の日もいつの間にか開始されます。
そして、その次の日というのも時間があるわけではありません。
また「あれをやってください」「これをやってください」と言われて、これを何の疑問も持たずに請け負っているとまた一日が終わります。
このような状態が数日続くだけならば良いのですが、下手をすると、23歳頃から死ぬまでこれを続けることになります。
人間は慣れてしまうので、これを長い間ついつい続けてしまうという罠があります。
特にルーティンワークになるとだんだん下手にできるようになってしまうため、本人としても疑問を持たずになんとなく続けてしまうわけです。
これを続けると、「ブラック企業で酷使された人」が誕生します。
しかし、ブラック企業じゃなくても、「いつの間にか一日が終わってしまった」という人は多いのでは無いでしょうか。
例えば、夕方17時に退社して、なんとなくいつもと同じメンバーと飲み会に行ったり、なんとなくいつも見ているテレビ等をみていると、これも「気がついたら1日が終わっていたりします」。
最近は、終活ブームも相まって、「自伝書」とも言うべき、「自分の人生は何だったのか手帳に書いてみましょう」みたいなワークが高齢者向けにあるようです。
そして、この自伝書を満足いくまで埋めることができる人はかなりの少数派では無いかと私は勝手に考えています。
というのも、いつも同じ事をやっているのだからわざわざ「自伝書」に敢えて書くべき事など思いつかないのでしょう。
おそらく、ライフイベントとしての結婚、昇進、転職、独立などは書くことができるのだと思います。わかりやすい変化ですから。
しかし、このような「わかりやすい変化」のみに着目していると、それ以上のことはかけなくなってしまいます。
自分が高齢者になった際に「私の人生ってなんだったんだろうか」と自伝書に記入しようとしても何も書くことができなかったという事態を想像すると、
「なんか、寂しい」
と感じます。
人生の後半期でそんな思いを自分にさせたくないな、と純粋に思います。
そして、人間の記憶は朧気なものに過ぎませんから、高齢者になったときに若い頃の努力とかは多分思い出せないのであって、「わかりやすい変化」以外は本当に出てこないでしょう。
正直、私自身の自己評価として、記憶力が全然ダメ、と思っているので、自分の記憶に頼ろうと思うこと自体が良くないと考えており、記憶に頼るのではなくしっかりと記録を残すことを重視しています。
そのためにも、日々の記録や気づきをしっかりと残しておくことは最重要であり、これが私が日記を毎日書き続けている理由なのかもしれません。
しかも、日記を書くと否応なしに気づくわけです。いや、気づいてしまうわけです。
「私、今日何も新しいことやっていない・・・・・・」
「今日、全然豊かに人生を送るための行動をしていない・・・・・・」
ということに。
新しいことをやるというのは当たり前ですが、何でも良いから普段と違う行動を起こさないと行けないので大変です。
当たり前のように、朝起きて会社に出勤して、仕事をこなして、適当にご飯を食べて、かえって寝るということをやると、日記には何も書けることはありません。
私が最近やっていることは、例えば、
①徒歩通勤だけではなく、シェアサイクルを使った自転車通勤やタクシー通勤を試してみる、
②仕事用のマウスやキーボードについても新しい製品を試してみて使いやすいのか判断してみる、
③仕事中に新しい本を紹介されたらすぐにAmazonのkindleで注文をして手元のiPhoneでちょっと読んでみたり、紙媒体の形で楽天市場でその場で注文しておく、
④仕事が来たらすぐに部下にできる指示はその場でしておき、時間が経たないと対応できないものにつき共有のスケジュールに予定を書いておいてタスクを周りの人に対しても可視化する、
⑤メールボックスをタスク処理のために使用し、終わったタスクに関連するメールはフォルダを移し目の前に入らないようにする、デスクトップもファイルがたまりやすいので適宜ゴミ箱に入れたりする
⑥後で送っておこうと思ったメールを放置せずに送信予約機能を使って自動的送信されるようにしておく
あたりは仕事のみに関連して常に意識しています。
これらのような時間を結果的に短縮してくれそうなものにまずは注力して、余った時間で新しい本をゆっくり読んでみたりして、新しい情報を仕入れることができる余力を残すようにできたらいいなと思って生きています。
まず、少しでもルーティンワークになってしまっているもののなかで早くできることを増やして、時間を余らせて、余った時間を新しい試行錯誤のために使用するというイメージです。
そもそも、人は余裕が無ければ、新しいことに挑戦する気にはなれません。
なぜならば、新しいことと言うのは未知のことであり、時間と金が無駄になってしまう、成果が出ないというリスクを常にはらんでいるためです。
そして、人生において個性を発揮したいだとか、アイデンティティを確立したいだとか、自己実現したいだとか、およそ「自伝書」に書くことができるような他人と差別化できるものを手に入れるためには、まずは「他人と同じ事しかしていない時間」を減らす必要があります。
そして、私の思う「他人と同じ事しかしていない時間」の中での典型例がおよそ「生活のために、お金のために会社などの勤め先で半ば強制的に仕事をしなければいけない時間」ではないでしょうか。
セミリタイア、アーリーリタイアの概念を知ったことで私はこのことを思いつきました。
セミリタイアやアーリーリタイアは程度の差はあれど、普通の働いている人と比べて「生活のために、お金のために会社などの勤め先で半ば強制的に仕事をしなければいけない時間」は少ない状態を維持できていることを示します。
具体的には、アメリカなどでは、若い内に高給職で稼いでおいて、お金を貯めて、勤め先を退職し、週2,3日のみゆるく働くという形を取っている人もいるようですが、これも週5日働いていないことから、「他人と同じ事しかしていない時間」は減っており、その分「自分のために使える時間」が確保されています。
実際にリタイアしてしまうかはともかく、私の中では経済的自由を目指すことは、「生活のために、お金のために会社などの勤め先で半ば強制的に仕事をしなければいけない時間」を極限まで減らして、「自分のために使える時間」を確保するための活動です。
ただ単に、ひたすらに節約と貯蓄を重ねているのではありません。「自分のために使える時間」を確保するための行動です。
これは経済的自由により、「いつでも無職になれる権利」に通じるところがあると思われますが、「自分のために使える時間」を他の人に比べて自由に確保しやすいということであり、この意味は非常に大きいです。
そして、このような「自分のために使える時間」を用いてその人にとってしっかりとやるべき活動をやると、自己実現、個性の発揮というのが初めて可能になるのではないでしょうか。
「経済的に自立しなければ個性はない」という一文を遠い昔の国語の授業の課題文で読んだ記憶がありますが(何故か今も覚えていますが)、この言葉の意味はそういうことなのではないかなと思います。
したがって、私も経済的自由を目指しながらも、並行して、自己実現や個性を発揮するためのあらゆる挑戦や工夫のためにはお金を惜しまないという生き方を進めています。
自分が持つ資源はお金と時間とエネルギーぐらいしかないので、これらをしっかりとそれぞれ確保し、適切な形で資源配分して、時には武器を手に入れ、人生の構想を実現することが、シミュレーションゲームのような人生ゲームの醍醐味、メインシナリオ攻略後のやりこみ要素みたいなものではないでしょうか。
そして、人生ゲームをしっかりとやりこんだ人こそが「人生を全うした」として、人生ゲームに真に満足できるのではないでしょうか。自伝書も満足いく形で作られるわけです。
そして、人生ゲームをしっかりとやりこめるようになるためには、メインシナリオ攻略は当然できているだけの実力が必要ですし、そのための経験値稼ぎなどは必要になるのだと思います。
この経験値稼ぎを現実の人生で毎日できているのかが問題になりますので、常に「今日は私は何をやっていたんだっけ?」ということを自分自身に問い続ける習慣を持つ必要があるのではないでしょうか。