不登校問題の是非について偶に考えます。
私の現段階の考えとしては、そのコミュニティーに価値がないのであれば不登校であってもかまわないというものです。
不登校の状態というのは、要するに、「本来ならば、みんなと同じように同じ時間に教室に通って授業を受け、規定の時間まで学校にいたうえで、規定の時間に帰るべきであるにもかかわらず、そうしない人がいる、それが問題である」ということなのだと思われます。
このような規範に従わない、従えない人を不登校の状態と呼んでいるのだと思います。
純粋に家から出ない人もいるかもしれませんが、学校の敷地内にはいても保健室から出てこないだとか、どこか別の場所にいる人も不登校の状態なのでしょう。
従うべき規範に従わない人というのは、不登校状態のみならず、社会に適合できない人という意味で社会不適合者といえるでしょうね。
ところで、私は社会不適合者という概念についても似たような事を思っているのですが、ある特定の、要求された従うべき規範に従うか否かという選択は本来その人自身が行うべきであると考えています。
選択をする以上は、メリットデメリットが当然あるわけですから、個々の事例において一概に「いや、社会の規範にあわせなくてもいいでしょ」などと安易に言うわけにはいきません。
もっとも、「そもそも規範に従うべきか、従わないべきか、その人本人が選択することができる」という視点は外さない方がいいと思っています。
そうなると、規範に従うべきか、従わないべきか、というメリットデメリットの精査、分析はしっかりと行った上で、選択してもらって、その結果不登校の状態が続いたり、社会不適合者の状態が続いたとしてもそれは仕方が無いのかなと思うところがあります。
そして、このざっくりと表現した、不登校の状態を選択する際のメリットデメリットについてですが、これは「そのコミュニティーに価値があるのか否か」で大筋分析すると思います。
よく言われるように、人間は社会的な生き物であり、共通の利益のために集団を形成します。
そして、その共通の利益をみんなが享受するために、集団内で守らなければいけないルール、規範というのが自然と形成されていきます。
このぼやっとしたルールというのが制度化されると、校則であったり、法律という形で現れることになるでしょう。
逆に言えば、その集団に所属することでもたらされる利益が自分にとって無用なものであると判断したらそのコミュニティーは切って大丈夫だと思います。
とはいえ、学校の場合は、将来のことも考えないといけないので、そもそも子供にとってこの分析そのものが難しいというのもあるかもしれないですね。
結局頭が良かったり実力があったりすれば、不登校状態でも何の問題も無いわけですが、不登校状態のくせに家でオンラインゲームをしているだけだったり、遊んでばかりいるとよくないというわけで、一人で勉強することができる人であることは間違いなく必要になると思っています。
一人で勉強することができない人であるのならば、周りの人たちに助けてもらって勉強することができる環境を構築することが必要になるわけですが、これもそのような環境を構築するのが容易である人とそうではない人がいるので難しいところです。
不登校の状態を選択するか否か、という問題を考えるに当たっては、個々の目線ではこのように、学校以外のコミュニティーがそもそも自分をサポートしてくれる環境にあるのか、すなわち、学校以外のコミュニティーもしっかりとその人が持っているのか、という点も重要になるでしょう。
これは、たくさんのコミュニティーを持っている人は、自分に合ったコミュニティーを選択することができるという状態をそもそもさしているわけです。逆に言えば、不登校状態を選択する前にこのような状況を作れているのか、本人が作れる人なのかという点も重要になるでしょう。
このように、人間関係の構築能力に優れている人や、そもそも本人の能力に優れている人であれば、低価値と判断した学校というコミュニティーは不要、通学時間の無駄として切り捨てるという判断もあり得るでしょう。
とはいえ、ここまで考えて不登校にするか否かを選択している人は正直少ないと思います。結局、適当に判断している人もいるでしょう。
その後の命運を分けるのは、本人の年齢を考えると現実的にはその人の出自、すなわち、生まれ持った才能だとか、恵まれた環境の有無、ということになりそうです。
このように、色々考えていくと、社会に所属してその規範に従ったり、学校に所属してその規範に従うという行為は、一種の社会資本を形成するための行為でもあるため、特定のコミュニティーを切るに当たってはその社会資本以外の他の資本、すなわち、人的資本、金融資本、その他の社会資本がどれだけあるのか、それらと比べてそのコミュニティーに時間とエネルギーを割く価値がどれだけあるのか、という相対的な判断になると考えられます。
ざっくりいうと、もともと恵まれている人であったら不登校の状態であってもまるで問題が無いという結論にならざるを得ないということなのかもしれません。
したがって、上記に書いた分析方法というのもそもそも持てる人の視点でしかないというのは否定しがたいです。
持たざる人がどうすればいいのか、という話をすると非常に難しいですね。
ずっと我慢するか、少しずつ、そのコミュニティーを切っても大丈夫なように用意周到に広義の資本を形成し、準備をするというあたりが現実的でしょうか。
これは、勤め人が会社に依存したくないとして経済的自由を目指す際の姿勢とかなり似ていますね。
出自が良くない限りはどこかで頑張らなくてはいけないという現実を示しているのかもしれません。