コロナ禍においてテレワークが広まって、ささやかれているのがオフィス不要論ですね。
端的に言うと、テレワーク、リモートワークができるのだから、オフィスってそもそも要らないよね?という事です。
その一方で、テレワークが可能であるにもかかわらずオフィスに出てくる人も存在します。
私自身も、冬はあんまり外に出たくないなーとかいいつつ、微妙にオフィスに行くこともあります。
基本的に私としてはリモートワーク賛成なのですが、「自分の好きなタイミングでオフィスに行くこと」に関しては多分肯定していたりします。
要するに、「オフィスに毎日行かなくては行けない」とか「ずっと家で仕事をしていなければいけない」という他人から与えられた規範に従うことがそもそも嫌なわけです。
通勤に伴う負担感も気になるのですが、この自律性を阻害されているという感覚がそもそも嫌なんだと思います。
寒くて外出そのものが嫌だなと感じているときには、1ヶ月以上オフィスに行きたくないと思っていますし、逆に外出しやすい気候だとか、自分の気分がノっている時などはオフィスに行って仕事していたりしています。
そんな中、自分の席、休める「居場所」がオフィスの中に存在するということそのものに対してもしかしたら嬉しく感じているのかもしれないと思うときはあります。
これは勤め先にもよるのかもしれませんが、勤め先に自分の席とともに自分の荷物を置くスペースがあるので、私の場合、読み終えたけれども家に置いておく気にはなれない本については勤め先の自分の席の近くに置いてあります。
したがって、勤め先が一部自分にとっての保管場所、物置のように機能しているわけです。もちろん、大して広いわけではないので家具などを置くわけにはいかないのですが、本を置くスペースぐらいはあるため、非常に重宝しています。
また、コロナ禍にあるのでソーシャルディスタンスをとらなくてはいけないことは前提になりますが、それでもオフィスに行くと同僚と対面で話をする機会は存在するため、そのような形でコミュニケーションをとることができるのはシンプルにオフィスの魅力です。
これが毎日オフィスに行くということになると、確かにその方が同僚とコミュニケーションを取る機会も増えるじゃないかと思われるかもしれませんが、私の考えとしては、そもそも人間関係を一つのコミュニティに依存すること自体がリスクであり、オフィスにいなければいけない強制的な時間が長ければ長いほどそのようなリスクが必然的に高まってしまうことそのものが問題だと考えています。
私が持ち家を購入するのを警戒するのと同様に一つの対象に集中投資することそのものがリスクのある行動です。
逆に言えば、「卵を一つのかごに盛らない」、分散投資をなるべくしたいという話であり、そのような観点からは自分の好きなタイミングにだけ行くことができるオフィスというのは非常に魅力的な存在です。
このように、考えていくと、学校制度、結婚制度、持ち家購入、終身雇用、出勤はマスト、というような形で従来の日本社会というのは、人々に対して集中投資をさせるシステムを前提としているように見えます。
当たり前ですが、集中投資というのは調子が良いときには最大の効用を私たちに与えてくれますが、逆に調子が悪くなると最悪の結果をもたらすものです。それを含めて私たちはリスクを取っているわけです。
今までの日本社会の常識に即して生きている人というのは、一見して慎重に生きているように見えますが、その実、無自覚に集中投資という名のリスクを取っていたりすることに気がついていないようです。
常識に即して生きているということは、よく分からないけど上手くいっている、今までは上手くいっていたから、周りが良いと言っていたから、周りが上手くいっているから、という表面的な理由で行動基準を決めているということです。
そのような人は、「なぜ、これで上手くいくのか?」という点を全く考えていないので、その常識を作っている本質的な前提条件が崩れてしまったら全く対応できません。これは、事前に常識が崩れてしまうことも予測することもできませんし、予測ができないのならば当然対応もできないので、いつの間にか自分が窮地に立たされていることに気づいていてももはやどうしようも無い状態になっているわけです。
「なぜ学校に私たちはいくのか?」「なぜ結婚するのか?」「なぜ就職するのか?」「なぜ家を買うのか?」「なぜ出勤するのか?」
このようなすぐに答えが出るとは限らない素朴な問いに向き合うことが大切になると思います。
現段階において、私の中では勤め先のオフィスという存在は、家の中にプラスして存在する物理的な「居場所」になります。
賃貸物件においては、賃貸借契約という形で自分の家という「居場所」を確保しているわけですが、オフィスという「居場所」は雇用契約などの形で得られる新たな物理的な「居場所」になります。
適当に働いていると、このような「居場所」は家と勤め先という2点しか存在しないわけですが、例えば、勤め先がサテライトオフィスなどを積極的に採用し、いつでもそのサテライトオフィスに出勤することが可能という措置をした場合、物理的な「居場所」が増えることになると思います。
他には、例えば、お気に入りのカフェにドリンク代を払って数時間滞在することは、お金という対価を契約によって払うことによって数時間分の「居場所」を確保する行為なのかもしれません。
私の場合は、時折ファミレスに行き、食事代を払うことによって数時間分の「居場所」を確保したりすることもあります。
もちろん、そもそも「居場所」っていうけど、そんなもの増やさなくても良くない?と言われたら確かにそうかも?と思わないわけではありません。
しかし、「居場所」を複数の場所に確保することは、私にとって知的好奇心を満たす重要な行為ではあると思います、自分の中における世界を広げる行為と言うべきでしょうか。
「居場所」を複数の場所に確保する、増やす行為というのは、このように自分の中における世界を広げる行為でもありますし、リスク分散のための探索行為でもあります。
そもそも、分散投資をするためには、様々な選択肢の存在を知ることで、これに対するそれぞれのリスク分析を可能にし、その分析に基づいた意思決定をする必要があります。
その前提として、様々な選択肢の存在を知るための何らかの活動が必要になります。
その一環として、今の家と勤め先以外の私にとっての「居場所」というものが存在しないだろうか?という発想に基づいた探索活動は重要になってくるのではないか、と考えています。
もちろん、探索するためにはある程度時間がかかってしまうというのは否定できないので、そのあたりはその人の人生計画と相談する必要はあると思います。
しかし、一般的に旅をすることを良しとされているように、そのような探索のための時間を確保するということも大事になるのではないでしょうか。