インターネットの発達で一番恩恵があったのは、やはり、自分が付き合いたいと思える人を地理的な制限無く探せるようになった点でしょう。
それまでは、人間関係は地縁によるもの、すなわち地理的な制限の中で、限られた人間という範囲の中で如何に良い感じにやりくりするかが重要でした。
この地理的な制限の中に実質的に血縁すなわち、親族関係も入っていたのだと思います。
このように、人間関係につき地理的な制限がある場合、何が起こるかというと、
ほぼ生まれた瞬間に事実上
「この人と仲良くしておいた方が自分の生存確率が上がる」
という人物がある程度決まってきます。
子供にとっては実の親かもしれませんし、地域社会においては、いわゆる地元の有力者かもしれません。
もっと集合的に地元の人たちという場合もあります。
自分がその人のことをたとえ好きではなく、快く思っていなかったとしても、その人に良くしてもらえる、かわいがってもらえる方が生存確率が上がるという状況がありました。
そのような状況の場合、相手のことが好きでも何でも無くても、しかし、相手には一応良くしてもらえる関係を創るための「お作法」みたいなものを強制的でも良いので身につけておいた方がよい(それが結果的に本人のためにもなる)という話になります。
具体的には、それは年賀状を毎年全員に送っておくだとか、お歳暮をしっかりとしかるべき人に出すだとか、お祭りにはしっかりと参加して貢献するだとか、そういう行為になります。
そういう今だと無駄と言われてしまうような行為を全く疑うことなくやるような習慣を身につけておいた方が結果的に生存確率が上がる可能性が高いということです。
むしろ、これを下手に疑ってしまって、
「なんでお歳暮なんて出さないと行けないの?お金が足りなくなってしまうんだけど」
などと言い出して、何も出さなくなってしまうと、
相互補助の関係が崩れてしまうため、そのうち相手からも何も恩恵を受けられなくなります。
これをやり過ぎると、いわゆる村八分ということになり、
状況によっては誰からの援助も受けられなくなって人生が詰む、という可能性があるわけですね。
学校教育なども正直何故存在するのかが私の中では意味不明な点もあったりするのですが、
このような地理的な制限のある人間関係の下では、限られた関係の中で如何に良い感じにやっていくか、という点が重要になるため、
割り当てられた30人や、40人というクラスの中で如何に良い関係を創るか、みんなと仲良くすることができるのか、という点は「社会性」を育むという意味では極めて重要な意義を持っていると説明されても違和感はありません。
ここでいう「社会性」というのはもちろん、
「相手のことが好きでも何でも無くても、しかし、相手には一応良くしてもらえる関係を創るための「お作法」を身につけた状態 」
を指しています。
しかし、合理的な話が好きな人は、割とストレートに
「相手のことが別に好きじゃないのに何で自分がこんなことをしなくてはいけないのか?」
と感じてしまい、
学校教育に適合できなかったり、地域社会に適合できなかったりします。
こうして立派な社会不適合者が発生します。
解消方法としては、そもそもの発想を変える、すなわち、
「およそ社会における規範に従っておいた方が限られた人間関係の中で自分の生存確率が上がるので、結果的に見ると、不合理に見えても、それを黙って遂行するのが合理的である」
という考え方を自分の頭の中にインストールする必要があります。
もともとの気質が社会不適合な人であっても、このような形でなんとかして自分の姿勢を変えている人はそれなりに多いでしょう。
しかし、冒頭で書いたとおり、今の時代は地理的な制限無く、自分にとって好ましい相手をネットを通じて探すことが可能になりました。
また、人だけではなく、貨幣市場を通じて、そしてネット通販などを通じて欲しい物を即日手に入れることも可能になっています。
すなわち、状況によっては、
「村八分にされようが別に困らない」
といえる人は増えてきているわけです。
例えば、経済的自由を達成してしまった人すなわち金融資本の部分が盤石になった人や、例えばネットを通じて地元の人とコミュニケーションを取らなくても稼ぐことができる人的資本がある人というのは、究極的には地元における人間関係、社会資本が無くても生きていくことが一応可能になるわけです。
それが果たして良い人生なのか、と言われると疑問はありますが、
社会不適合者故に地元で「村八分」となってしまって支援を受けられなくなってしまっても一応生存することは可能です。
したがって、ネットを通じて自分の好きな人を探し出してその人と交流をすることによって、付き合いたい人と付き合うということが可能になったという状況は非常にありがたいことだと言えます。
しかしながら、ここで一つ大きな落とし穴があります。
というのは、あなただけではなく、相手も自分の好きな人を探し出して付き合いたい人と付き合いたいということを望んでいるということです。
一見当たり前ではないかと思ってしまうかもしれませんが、
要するに、相手と両思いにならないと、自分が付き合いたい人と付き合えないのですから、自分が相手に選ばれるような人になっていないと行けません。
しかし、もともと社会不適合な人で、しかも、 相手のことが好きでも何でも無くても、しかし、相手には一応良くしてもらえる関係を創るための「お作法」を強制的に身につけていない場合、
自分が付き合いたいと思う相手に対しても、相手には一応良くしてもらえるだけの「お作法」というのがとっさに行動としてできない可能性があります。
なぜならば、このような「お作法」をもともと疑いも無くやっている人というのは、習慣としてそのような行動を実行することをしっかりと身につけている一方で、社会不適合者故にやっていない人はこれが習慣になっていないので、具体的には、何をするべきなのか、どうすれば実行に至るのかという点がイマイチわかっていないため、相手に選ばれるためにやるべき行為が上手くできないという場合があるのです。
そのような状態になってしまった場合、せっかくネットで付き合いたい人を探せるようになったとしても、相手から選ばれず、一方的な思い、片思いに終わる可能性が高いのです。
そのため、この「お作法」を身につけるべく、コミュニケーション能力を重点的に身につけることが、より自由に自分にとって好ましい人と人間関係を育み、社会資本を形成するために実は重要になってくると言えるでしょう。
「中学校で強制的に触れたどこで役に立つのかイマイチわからない授業内容が60歳になった今更ながら役に立った」というような話と似ているのかもしれませんね。
知識をそのまま覚えて使おうとするのでは無く、常に勉強しながら今の状況でどうすれば知識をより良い形で自分の目的に沿って生かせるのか考えることが重要であるという話でしょう。