日本では、当たり前のようになっていますが、指定した時間帯に宅配便が来るというのは地味にすごいことだと感じます。
私自身も、指定した時間帯に宅配便が来るのが当たり前だと思っていました。
したがって、偶に起こる、指定した時間帯に宅配便が来なかった時には、「ん?」となります。
この時、反応として、「(指定した時間帯に来るのが当たり前なのに、)どうして来ないのか?」と考え始めて、
「いや、もしかしたら、5分、10分ぐらいは様々な事情で来れなかっただけかもしれない」
と考え始めて、しかし、1時間、2時間経っても全然宅配便が来る気配がしない・・・・・・
この頃になってさすがに「あ、来ないのか」と感じ始め、
同時に、
「宅配便を待つためだけに、指定された時間に外出しないようにしていたので、宅配便が来ないと知っていたら外出していたのにその分の時間が無駄になってしまった、しかも、指定された時間帯以後の1時間、2時間後も家の中で宅配便を待つことに意識を払ってしまった」
と感じます。
要するに、考え方によっては、宅配便を指定した時間帯+1時間、2時間分を有効活用できなかったということになります。
厳密には、他の作業も家の中ですることは可能なわけですが、それは飽くまで頭を使わない作業になります。何故なら、宅配便関係の連絡を待つという作業に自分の脳内のメモリを使用してしまっているので知的な重作業をするキャパが残らないからです。
このように考えてみると、宅配便を受け取りつつ、その時間を有効に使うためには、指定した時間帯に宅配便が来るのが当たり前という前提がかなり重要になってくるのだと思います。
そして、この当たり前のために私たちはある程度の額のお金を支払っているわけですが、しかし、いつの間にか、これが当たり前すぎて空気のような存在になっているとも思います。
空気は当たり前のように存在していますが、無くなってしまえば、人間が窒息死してしまうのと同様で、失って初めて指定された時間帯に宅配便が届くことのありがたみが分かるというものです。
ここまで考えてようやく、「宅配便をもってきてくれる人も重労働だもの」と考え始めて、宅配業を携わっている人間の存在を認識するのです。
当たり前の動きをしてくれているうちは、まるで宅配便を運んでくれる人を人間というよりは、機械のように、物質的なものと認識しがちです。
逆に言えば、勤め人として宅配業に関わっている人は、消費者からこのような非人間的な目線で普段は見られているのだな、ということを感じます。
ここに現代の勤め人の辛さが詰まっているのではないか、と感じます。
サービスは良質なのが当たり前、〆切は消費者が指定したら守られるのが当たり前、など様々な当たり前はサービスの提供を補助する主体である人間を歯車のように、機械のように認識してしまいがちです。
よく就活生が「お客さんにありがとうと言われる仕事がしたくて」と話しているのを見ていますが、サービスの質が高く、勤め人の仕事能力が洗練されていればいるほど、むしろ、消費者側からは(当たり前だから)ありがたいと思われず、「ありがとう」などと言われることがない、という状況に陥ってしまうというのがあるのかもしれません。
こうして、勤め人として頑張っているのにもかかわらず、仕事能力が高くなっても、それに応じた「ありがとう」という報酬をなかなかもらうことができずに病んでしまう人が後を絶たないのだと思います。
使い勝手の良い、安定したアプトプットを出す勤め人は雇用主から見ると非常に使い勝手が良い存在ですが、同時に「●●さんだから当たり前」という扱いを受けてしまうリスクをはらんでいます。
優秀な人がこのような扱いをされているのを見ると、むしろ敢えて時折ガタっと崩れてしまう人の方が「こいつ手がかかるな」「フォローするのがめんどくさいな」と思われる一方で、機械のような、歯車の一つのような扱いはされにくいのではないかと考えています。
このような機械のような扱いをされてしまう業種はいわゆる単純労働に多いと考えられ、高度な技能を要求される専門職に就いている人はあまりこのような扱いをされないかもしれません。
というのも、高度な専門職はあまりできる人がいないためか、その人自身の個性が出やすいというのがあって、個性があるような仕事だと一応人間として見られやすいという事があると思います。
個性がないような単純労働は誰にでもできると認識されるためか、物として見られやすいのかもしれません。
このように頑張って働いていても、個性が積み上がらず、人としての扱いを受けにくい状態が続くと勤め人の自尊心まで傷つくのかもしれません。
しかし、同時にこのような3Kと言われるような仕事、苦役であっても、冒頭の私の感覚にもあるように、上手くやってくれる人がいるからこそ、私のような人が時間を有効活用することができる、という側面があります。
つまり、誰かが有効に時間を活用することを可能にするという側面もあるため、そのために働いている、という見方もできるのかもしれません。
誰かが有効に時間を活用するためのお手伝いをする内容の仕事というのは、他にもたくさんありますね。
秘書、事務、経理、他には、専業主婦などもこれに似ているでしょうか。
伝統的に女性が携わることが多い仕事にこのように「誰かが有効に時間を活用するためのお手伝いをする仕事」が多いのかもしれないですね。
言うなれば、召使い的な立場でしょうか。メインの業務を行う人の履行補助を行う人。
このような仕事は性質として、上手くやってくれるのが当たり前と思われるという点も共通しているとも感じます。
仕事上の成果が上がるとしたらメインの業務を行っている人が業績を上げる場合になりますが、結果が出たとしても、召使い的な立場の人が直接表彰されることはありません。
例えば、とある政治家とその秘書というコンビがいたとして、秘書が有能で政治家が仕事をしやすくなった結果、何かしら良い結果を出したとしても、外部から直接たたえられるのは政治家本人だけです。
政治家本人が気を利かせられる人、かつ、秘書の仕事ぶりを適切に評価できる人であれば、その後「君がいてくれたからこそだよ」と秘書を褒めるなどして適切な報酬を与えることができますが、それを怠っている場合、秘書はあまり面白くない気持ちになるのではないでしょうか。
場合によっては、「結構頑張っていたけどなんかやりがいを感じられずこの仕事はつまらなかった」と言って退職する場合もあると思います。
転職するとしても、秘書としての業務能力を的確に評価できる転職先ならば転職しやすいのかもしれませんが、現実的にそれを行えるのは同じ職種のみということになりがちかもしれません。
昨今は、女性の社会進出などが話題に上がりやすいですが、おそらく、これらの推進する際の想定される仕事というのには論者によって差があるのではないか、と感じています。
例えば、3Kや「誰かが有効に時間を活用するためのお手伝いをする仕事」に関して労働力が足りないため、女性にもここに関わって欲しい、という意図がある人もいれば、一方で、そのような「誰かが有効に時間を活用するためのお手伝いをする仕事」のような仕事ではなく、直接褒め称えられるような、光を浴びるような仕事、個性を発揮できて、やりがいのある仕事にこそ女性が進出するべきだというような意図の人もいると思います。
この辺りに、女性の社会進出一つをとっても意図に乖離があると思います。私としては当然後者をやりたいですね。勿論。
とはいえ、前者のような人がいてこそ、社会の発展に携わる人たちが活動する時間が創出されるわけで、これにより資本主義社会の発展が支えられている面があるかもしれない、と考えるところでもあり、難しいと感じます。
せめて、前者の人たちは社会から求められている人たちなのだから、「能力が無いからそのような仕事にしか就けなかったんだろう」と他人から言われるような社会にはしたくない、とも感じるのです。