ずっと、片付けをやっていてふと考えました。
実は、片付けや整理整頓とは、単に綺麗にすることが重要ではなく、その時々の自分に応じて、住環境を最適化させることが重要なのではないか、と。
そして、この住環境を最適化させるというのは、自分の現在持っている目的や目標と繋がりをもってコンセプトが自ずと生じるのではないだろうか、と。
例えば、今の私などを例に挙げると、
最近は勤め先における仕事に対する姿勢が変わってきています。
もともとは、さっさと激務に耐えまくって高収入を得て経済的自由を得たら退職してしまう予定でした。
そのため、仕事に対する姿勢も
「取り敢えず、来たタスクを処理しなくては」
という近眼的な視点で考えていました。
しかし、最近は自分の人生の目標は、経済的自由を達成するのにとどまらず、いや、これを含めて、「自分という資産」を最大化させることによって、幸せを追求していこうと考えています。
この観点から、今の仕事をやることによって経験やキャリアを積んで「自分という資産」を拡大させることができるのではないか、いや、できそうだと考えるようになってきました。
勤め先によっては本当に単調な仕事ばかりでキャリアなんてない、早く辞めるべき、というところもあるのかもしれませんが、運良く私がついている勤め先の仕事は、知的に高度な能力が求められるところであり、今後のキャリアの積み上げが期待できるところではないかと思います。
従って、片付けにおいても仕事をより効率的にやりやすくして、瑣末なところではなく勉強するべきことに集中したいと考えています。
このように勉強に集中できる体制を職場においてしっかり作ることによって、自分という資産を積み上げるための最適な場所を作りたいです。
そのため、自然と、
「ずっと使い道が見えない資料は処分して視界から消す」
「いつも手に取る必要のある道具は手に取れる場所に置く」
「防災グッズは必要性があるので捨てないが、普段は目の前に見えないように配置する」
「意識的に勉強をしたい分野に関する専門書や、インストールしたい習慣に関連した書籍などは普段使わなくても自然と視界に入ってくるようにする」
「机の上のみならず、パソコンの中も体系的に整理するによって頭の中を効率化する」
などの方策が出てきます。
これらは要するに、
仕事や勉強しやすくしたりするという目的のために必要のないものは、捨てて気が散らないようにしてしまい、かつ、この目的のために必要なものであっても適当に置かずに理由のある配置を行うという試みです。
これは結果的に「綺麗になる」ということを意味するかもしれません。
しかし、「綺麗になったね」というのは表面的な見方に過ぎないのではないでしょうか。
重要なのは、その時々の自分の人生の目的や目標に向かって最適な住環境を構築することであって、結果的に他者から見て綺麗になっているように見えるだけなのです。
このような行動をすることは、人生の目標や目的が常に意識されていないとできないと思います。
意識されていない場合、とりあえず他人の目線だけを気にして、適当な物の置き方になりますし、家に友達が突然訪問した時のみ慌ててクローゼットの中に処分すべきものを押し込めるという対症療法をせざるを得ません。
この意味では、他人の前でだけはせめて綺麗に見せたいという目的を持っている人も一見綺麗好きに他者に対して見せたいという感情から、一応しっかりと整理整頓を行っている場合もあります。
しかし、これは他人の評価に左右された結果の行動であります。
自分で目標を決めた上でそれに基づいたコンセプトを設定して体系だった理由のもとに基準を設けて自律的に片付けや整理整頓をしている人とは内実がかなり異なると思います。
このように自分の人生をしっかりとハンドリング、コントロールしたい、主体的に、自律的に生きていきたい人にとっては、片付けや整理整頓とは「住環境の最適化」をまさに意味しているのではないでしょうか。
私もこのブログで以前に、「節約というよりは支出の最適化を、考えたい」と話していましたが、こちらも経済的自由を目指して、主体的に購買活動を選択したい、他人の発想や都合に購買活動を左右されたくないという意味では、発想がかなり似ています。
どうやら、私は他人に左右されてしまう人生ではなく、主体的に自律的に自ら人生をコントロールしていきたいという根源的な欲求がかなり強いようです。