最近は、名刺もオンライン化がどんどん進んでいるようです。
社会人になってから名刺交換を経験した人はたくさんいると思われますが、名刺交換の際には細かい点までさまざまなマナーというのがあるようです。
正直覚えきれません。
ベンチャーなどで活躍されている方にとっては名刺は基本的に不要という認識が社会通念としてあるのかもしれませんが、伝統的な大企業では紙で取りあえず名刺交換は行うという慣習は続いているようですね。
このような細かい点にも的確に慣れていくことを「社会人になること」として考えている人は多いようです。
要は、社会人になるということは、社会という漠然とした何かに合わせる必要があるんだよということが言いたいわけですね。
あるいは「大人になること」と表現している人もいるでしょうか。
思うに、このようなやっている意味がもう終わってしまった、時代遅れになってしまったところにおいてもマナーというのは蔓延っています。
意味があるとは思えないのに何故やっているのかがよくわからないと思って、やらなくなる人は社会不適合者と呼ばれやすいと思われます。
しかし、意味がない事であることをいつまでもなんとなく続けている社会にそもそも合わせる価値ってどこまであるのでしょうか?
「社会」というものに合わせることである程度の利益をそこから得る必要に迫られている人はもちろん生き抜くために「社会人」になる必要があるわけですが、そこまでする必要がそもそもない人にとってはよくわからないことを続けている社会に合わせてあげる価値って本当にあるのでしょうか?
そして、どうせだったら、「社会に合わせてあげる」必要性そのものを無くしてしまったら面白いことになると思いませんか?
つまり、「社会不適合者」になっても何ら問題ないという状態にしてしまうわけです。
そして、「社会に合わせてあげる」必要性を無くしてしまうためには、生きていくためには働いて賃金を得る必要がある労働者の立場を卒業するのが一番の近道であり、そのためにも経済的自由の達成というのは大きな価値があると私は考えています。
すなわち、社会人としてしっかりしなければいけないという規範を定立させている前提部分をそもそも根底から覆してしまう、この辺りになんとも言えない面白さ、わくわく感があるのだと思います。
最近は、適応障害などを始めとして、職場や勤め場所において体調が悪くなったり具合が悪くなって鬱病一歩手前まで追い詰められてしまう人もいるようですが、
そもそも適応障害になるということは、確かに社会不適合者である可能性は高いわけではありますが、しかし、その人本来が持っている人間性のようなものが害されていることから生じていることが多いのではないでしょうか。
その人にとって非人間的な振る舞いを「社会」によって求められ、本当は苦手だとかやりたくないのにもかかわらず頭でやるしかないと押さえつけているとそのうち限界が来る、という状態なのだと思います。
私たちに非人間的な振る舞いを要求するような「社会」に本当に価値があるのでしょうか?
「自分はもしかしたら社会不適合者じゃないだろうか・・・・・・」と悩んでいる人がいるとは思いますが、これは社会に合わせられない自分を責める発想です。
発想を変えてみて、そもそも「社会」というものに合わせる必要があるのだろうか、ということを真剣に考えてみた方が良いのではないでしょうか。
この記事では漠然と「社会」、と表現していますが、その人の状況によっては、「一つの企業の中」「一つの学校の中」などのようにただのローカルルールにすぎないものをあたかも「社会」全体として求められているかのように説教してくる人も存在するのでこのキーワードを多用して部下や後輩を叱っている人などを見かけたら要注意だと思った方が良いと思います。
「社会」というのはそもそも漠然としすぎているのです。
一種のマジックワードと化しており、頭を使わずに適当に他人を説得しようとする人が多用する言葉でもあります。
「社会」というものに惑わされることなく、「何故このようなルールがそもそも存在するのか」「現在でもこのルールを守る必要が本当にあるのか」ということに疑問を持ってどうして必要なのか、ということをしっかりと自分の頭で考えることができれば、底の浅い説得方法に騙されることはありません。
自分が社会不適合者かもしれないと悩んでいる人は一度立ち止まってよく考えてみることをおすすめします。