基本的に実用的な本を読むことの方が多いのですが、時折、長編小説を読むことがあります。
その時、思うのは、最初の主人公が生きている間に限らず、その死後に渡って長いスパンで書かれている物語を見るのはなかなか新鮮だなと感じます。
というのも、人生計画とか考える時って、
大抵「自分が生きている間に何をどうするのか」
ということを基本的に考えますよね。
死後のことを考えると言っても、精々、相続税がどうだとか、
相続ならぬ「争続」にならないようにどうしようか。
ということを考えるくらいだと思うのですよね。
それ以上の、長いスパンの、もはや1人の人生を超えた時間感覚を養うことができるのは、長編小説ならではだと感じます。
普段の生活で何も考えていないと、なんとなくボーッと日々を生きてしまいがちなのですが、
しかし、この先にもどんどん時間が続いていくのだと思うと、改めて今の時間が貴重だと感じますし、
新しい問いとして、自分が生きている間だけでは無く、自分が亡くなった後の世の中とか社会とか、家族とかはどうなっているのだろう、どのように展開しうるのだろう、と考え始めます。
同時に、長編小説を見ていて
「敢えて描写されていないエピソード・場面は何か」
という辺りに私としては着目したいと感じています。
というのも、例えば、サラリーマンの人生を描いたときに、例えば、いちいち通勤の時間を描写する場合ってそんなに多くは無いと思うのですよね。
場合によっては、通勤=苦痛の象徴として描写される場合もあると思うのですが、後々の展開との比較として使われるだけであって、明らかにメインのストーリーに大きな影響を及ぼすイベントではありません。
通勤するだけじゃ基本的に仕事はできないですからね。単に移動しているだけです。
このようなことも考えると、わざわざ地の文に書かれている物は意味のある文章として知覚できるのですが、そうではないところがあると、
書かれていない部分、この間にはこの人達は何をしてるのだろう?
と思うわけです。
よくよく考えると、書かれていない部分の主人公達の行動についても時間は確実に流れているわけです。
彼らはこの間で何をしているのだろうか、と考えてやまないのです。
もしかしたら、書かれていない部分については、習慣化された行動を毎日起こしているのかもしれない、と私は感じました。
どんな人にも習慣は存在するはずなので、その習慣の積み重ねによって勝手にストーリーがある程度「さもありなん」と言わんばかりに進み、しかし、時折、珍しい事件や奇抜な事件が起こったりして物語がさらに展開されるわけで、このさらなる展開の部分こそが本文に書かれているわけですよね。
このような見方で物語を分析していくのもなかなか面白いなと感じています。
こう考えていくと、他人の伝記なども見るときも同じ事が言えそうですよね。
どうしても、区切りになったり何かのきっかけらしきものばかりがどんどん描写されてしまうので、
これがきっかけであの人はああなったのか!
とついつい認識しやすいのですが、それ以上に普段の描写するまでもない行動の影響がそれなりに大きいのではないかと感じています。
つまりは、習慣の力が発揮されている部分が実際の所かなり多いのではないか、ということですね。
このような視点で今後は他人のストーリーを分析していけると面白そうだな、と感じました。