以前、2020年6月1日のブログにおいて、私が手持ちの非公開の日記を5000以上書き続けた際の感想を書いています。
本日、2021年10月26日時点では、この日記数が10000を超えたため、改めて手持ちの非公開の日記を継続して書き続ける意味について考えていました。
前回の時点から起算して2年間経っていない時点で5000ほどの日記がいつのまにか追記されていたのは私自身としてもなんとも言えないという不思議な気持ちになりましたが、
単純計算で、1日1回日記を追記するだけでは到底このような数になるはずがないので、一日のうちに無意識のうちに何度も日記を追記しているということになります。
これはすなわち、毎日何度も日記を追記することが完全に習慣化されていると言っても良いと思われます。
もはやこれは日記すなわち、
その日のことを総括して書く記録
ではなく、
その時に思ったことや考えたことをその都度書く記録
と化していると思われます。
つまり、日記というネーミングはもはや語弊があると言っても過言ではありません。
このように、その時々に感じたことを記憶にとどめておくのではなく、記録として後から遡れるようにしておくことによって、自分自身という人物像がよりわかりやすく理解できるようになると考えられます。
4年間という歳月になるともはや記憶に頼ってしまうと何も思い出せない危険性があるところを、そもそも記録ができるツールに頼ってしまうわけです。
このように、日記(と呼んでいいのかももはやよく分かりませんが)を書き続ける意味としては、
①記述の過程において自問自答を繰り返すことによって自分自身の価値観の内省を行う事ができる
②行動記録を積み上げてパーソナルデータという資産を形成する
③目標達成に対する意欲を高め、達成度を測るセルフモニタリングがやりやすくなる
④ただの体験を記述の過程において経験化しやすくなり、抽象化能力と具体化能力が高まる
⑤記述の過程においてリフレーミングのトレーニングが可能になり、精神安定化装置としての役割を果たせる
あたりが挙げられるでしょう。
ブログとも共通する部分がありますが、以下でもこのことについて詳しく話をしています。
さて、記録数が5000→10000と数が増えて行くに従って何か面白い変化が起こっていないかどうか私は改めて確認しました。
そこで、5000を達成した際にも言及した
「経済的自由」
というワードで私の日記を内部検索してみました。
すると、面白いことにこの単語、全体的にかなり言及されているにもかかわらずある時期を境に出現頻度が減少していることが分かりました。
具体的に言うと、2021年1月や2021年4月辺りを境に数が段階的に少しずつ減っているようなのです。
この時期って何かあったっけ・・・・・・?
と考えたので、ブログなども改めて探ってみましたが、以下の記事を更新したあたりの時期のようです。
他にも色々と記事は更新していますが、一番区切りを意識していると思われるのが上記の記事になります。
このワードが減る代わりに段々増えてきているのは、
私自身が今後どんな目標に向かいたいのか???
という目標設定や価値観や自己実現に関わる自問自答を内容とする記述です。
どうやら、既存の目標達成に近づくにつれて新たな目標に対する意識のようなものが高まってきているようです。
これは、今までの自分の物理的な周辺状況が変化したことによって、それに伴い価値観や思考が変遷していると言えるのだと思われます。
小学校の算数の時間において子どもがいつまでも九九の話題ばかり触れているのではなく、九九をある程度マスターできるようになったら、より複雑でレベルの高い四則演算に関心を示し出したりするのと似たような現象かもしれません。
このように、遡って膨大な自分の状況や思考の記録を確認できるようになることで自分史のようなものを自ら発見することができるようになるのが日記の良いところではないかと考えています。