「何故、勉強をしたほうがいいのか?」
と、時折考えると、
知識があった方が、同じものを見ていても得られる情報が異なるから
という理由が挙げられます。
例えば、役所から届く行政文書。
詳しくない人は、一番フォントの大きな本文の部分だけを読んで、その趣旨を理解することになりますが、
実務に詳しい人になると、
むしろ、小さな注釈に何が書いてあって、何が書かれていないのかを見て、情報を読み取ります。
不動産なども、詳しくない人は、建物ばかりを見ますが、詳しい人は、土地の状況までもしっかりみますし、そこに存在するであろう規制の内容までも推認することもできます。
有価証券報告書なども、非常に細かい情報が書かれており、そこから様々な情報を読み取ることができます。
これの恐ろしいところは、
情報を読み取れていない側の人はそれに対する自覚さえできない点です。
隣にたまたま詳しい人がいて、
「これって、○○だよね」
と言われたら、
「えっ。そうなの?」
となりますし、
なんとなくネットで検索をかけて、
「○○って実はこうなんですよね」
と解説してくれている記事などがあれば、
「そうだったんだ」
と、
自分が気づいていなかったことに気付くことも可能ですが、
そのような人が隣にいなかったり、解説してくれるものがなければ、全く気付くことすらできません。
無知の知と言われますが、自分自身が知らないことに対して自覚を持つというのは非常に難しいです。
このような小さなことの積み重ねで、
「いつの間にか、一つの物事からどんどん知識や知恵、発想を吸収することができる人と、できない人」
の格差が広がっていくのです。
よく、金持ちと貧乏人との間で格差がどんどん広がっていくと最近は言われますが、
大富豪などを除けば、本当に小さなことがどんどん大きな差になっているということが見ているとよくわかります。
だからこそ、少しずつ時間がある時に、
体系的な学習
というのもが必要になるのでしょう。
特に、社会人になると、体系的な解説書を最初から最後まで読む時間が無くなってしまう人が増えてきます。
これは危ないです。
まとまった時間を確保することができたら体系的な学習をすることができれば、すぐに成果は出ないかもしれませんが後々役に立ちます。