「同居孤独死」という摩訶不思議な現象が近年起こっているようです↓
一応、同じ家の中で同居はしているものの、しかし、コミュニケーションなどを禄にとらないことから家族が亡くなってもそもそも亡くなったことに気づけない、ということみたいですね。
「老後は家族と一緒が幸せ」という概念を考えなおす時がきているかもしれないという指摘もされているようですが、
そもそも、家族と一緒が幸せって言っても、「自分の世話を子供にさせたい」以上の意味合いがここから読み取れないんですよね。。。
子供の方は親と一緒に暮らせて幸せなのでしょうか??疑問です。
80代の親と50代の子供で同居していて、50代の子供の方は普段は普通に仕事しているパターンが結構多いようですが、
仕事していたら、80代の親にそもそも構っている暇が無い、というのもなんとなくわかります。
もし、50代の子供の方にさらに子供がいたりしたら、子供(孫)の方にかまうしかない、だとか、子供(孫)の今後の教育費のために今は仕事をして稼がなきゃとか、そういう話が出てきてしまうんですよね。
この問題を簡単に解決するためには、50代の子供の方に配偶者をくっつけて、その配偶者に80代の親のことやその他の子供のことや家庭のことや近所づきあいのことを役割としてお願いするという話になるのだと思われますが、
しかし、これは配偶者視点だと「やたらと重労働な専業主婦(夫)」をやらないと行けないという話になるため、それ相応のリターン、メリットがないとそもそも50代の子供と結婚してくれたり同居して世話してくれたりとかそういう話にならないんですよね。
一家の大黒柱的な存在の人がものすごく稼いできて裕福な生活を約束できるだとかそういう要素がないと厳しいですよね。
「何故私がそんなことをやらないといけないのか」
という話に全く答えられないわけです。
あと、子供が同居の親の遺体をなんだかんだで放置してしまう、というのもなんとなく結構ありそうだなと思います。
というのも、80代ぐらいの親だと年金をもらえている可能性があるので、死亡届を出さない方がその分年金をもらえるとかそういうことを考える人が出てきても理解はできます。
あとは、純粋に亡くなった人を目の前にしても役所関係の届出について何をすれば良いのかそもそも知らないだとか、
葬儀はお金がかかるから面倒だしやりたくないだとか、
この辺りもなんとなく分からなくもないです。
そもそも、同居孤独死を原因として逮捕されたり起訴されている人は、死体遺棄罪の嫌疑をかけられているわけですが、
この死体遺棄罪というのもなかなか曲者だと感じます。
というのも、この罪はそもそも保護法益は「宗教的感情」に過ぎないんですよね。
どういうことかというと、殺人罪とかならば、その罪を創設する意味合いとして、
「人の命は大事だから、その命を奪うような行為を禁止できるような仕組みを、殺人罪という罪を創ることによって整えよう」
という発想から来ていて、殺人罪というのはその保護法益が「人の生命」となるわけですが、
死体遺棄罪というのは、もう本人が既に亡くなっているわけですよね。
もう既に生命として扱われる存在ではなく、タダの物質にすぎないという見方になってしまうわけです。
でも、ぱっと見、人としての形は残っているので、「この前までは一応生きていた存在」でもあるんですよね。
この辺りの、絶妙なポジションがまた悩ましいところです。
因みに、他の死体遺棄罪の説明としては以下のようなものもありました↓
葬祭に関する社会の秩序を維持するために,死体を場所的に移転して放置したり,葬祭をなすべき責任のある者が葬祭をなさずに放置することによって成立する犯罪をいう (刑法 190) 。本罪は葬祭義務者については死体を放置するという不作為によって成立するが,それ以外の者の場合には死体の場所的移転という作為が要求される。したがって,殺人犯人が現場に死体を放置して立去るだけでは本罪は成立しない。
引用:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
こちらでは、「葬祭に関する社会の秩序を維持するために」とありますが、
そもそも、葬祭というのも宗教的な意味合いを持つ行為なので、やはり、死体遺棄罪という罪をわざわざ創設する意味というのは、宗教上の理由でしかないというわけですね。
宗教上の理由でしかないという微妙な表現しか私にはできないのがまた悩ましいのですが、コレを見ていると、
「そもそも、葬祭する必要ってあるの?」
という疑問がどうしても出てきてしまうんですよね。
この前まで一応生きていた存在を最大限尊重したりだとかそういう意味がもしかしたらあるのかもしれませんが、
本当にやる必要があるのか、といわれると「?」がつきます。
似たような話として、「ひかりごけ事件」というのもありますよね。
ひかりごけ事件(ひかりごけ じけん)とは、1944年(昭和19年)5月に日本の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件である。日本陸軍の徴用船(cf. 焼津港の徴用船)が難破し、真冬の知床岬で危機状態に置かれた船長が、船員の遺体を食べて生き延びた。 日本の歴史上、食人は幾度と発生したが、本件は「食人によって刑を科せられた初めての事件」とされる。日本の刑法には食人に関する規定が無いため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。 名称は、本件を題材とした武田泰淳の短編小説『ひかりごけ』(1954年初出)に由来する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%94%E3%81%91%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これも、既に亡くなった人をタダの物質としてみたら、「何故食べてはいけないのか」という話になりますよね。
事件の当事者は自責の念にとらわれているようですが、「何故これが罪に?」と言われると、なんとも言えません。
日本人は無宗教だと言われることもあるようですが、このような宗教上の理由だけで罪が創設されて、しかもこれによって起訴されたり刑を科されるという仕組みを取っている以上、事実上特定の宗教的な行為を強制されているととらえられてもおかしくないと思うんですよね。
まあ、このように考えていくと、一時期2000年代ぐらいに話題になった、
「何故人を殺してはいけないのか?」
という疑問にも最終的に答える必要が出てくるので割と困ると言えば困るんですけどね。
こういう一種の社会の作法みたいなものは、皆が豊かで余裕があれば、守りやすいのでしょうけれども、ひかりごけ事件のように限界の状況で守れるのか、と言われると個人的には全く自信がありません。
そして、社会が不安定になってくると、このような宗教的な意味合いしか実質的にはなかったといえるような物からどんどんその存在意義について疑問が投げかけられたりされてくるのかな、と思います。
個人として、このような今までの固定観念を脱することがこれからの社会を生きていく上で大事になってくると思うのと同時に、こういう社会不安にも向き合う必要があるのかなと思うところです。