人生はゲームのように例えられることがあります。
その中で最近よく聞くのが、
「人生イージーモード」
という言葉で、
これは、
例えば、
「あの人は、いい家に生まれたから就職とかもする必要ないし、人生イージーモードだよなー」
とか、
「男性に比べて女性は結婚さえすれば働かなくてもいいだろうし人生イージーモードでいいよなー」
と言った形で、
(発言者から見て)楽して人生を送ることができる状況にある人に対して「うらやましい」といったニュアンスで用いられることが多いようです。
これは、最近よく聞く、
親ガチャ
という言葉のように、
(発言者から見て)恵まれている人に対して用いられているという意味では、似たようなニュアンスを感じます。
一方で、
人並み以上の努力をしなければいけない厳しい状況にあるという意味で
「人生ハードモード」
という表現で自分自身の人生を自虐するような表現も時折見られます。
しかし、人生がイージーモードであれば、それでよいのか?楽しいのか?と言われると若干疑義があると感じる部分もあります。
親ガチャの場合もそうですが、
親ガチャに当たらなかった人であったとしても、それゆえの強みがその人に備わっている場合があります。
そして、
もしも、プレイしているゲームでイージーモードしか選べなかったらそれは楽しいのでしょうか?
確かに、ゲームをクリアすることは簡単にできるかもしれません。
しかし、楽ではあっても、あっさりとクリアしてしまうとすぐに物足りなくなってしまう人もいるでしょう。
むしろ、イージーモードでは物足りないとして、ゲームをやりこんだら高難易度であるハードモードに挑戦したくなると思われます。
いわゆる、縛りプレイのように、ゲームの製作者が想定している以上の難易度を自分勝手に設定して遊んでいる人すらいます。
しかも、
「あのゲームはこういう意味でハードなゲームだ」
「あのゲームのラスボスは強すぎてなかなか倒せない」
と噂されているゲームの方が、クリア後の達成感というのは強かったりします。
もちろん、
最初から人生のハードモードを(強制的に)選ばされて、なかなかクリアができないとなれば、
それは辛いことかもしれません。
「なぜ、自分はイージーモードを選べなかったのか?」
と考えて、
人生イージーモードに見える人が羨ましく思えるかもしれません。
そして、自分が何か(本来であれば)必要のない努力を強いられていると感じるかもしれません。
しかし、これは最初からゲームのやりこみ要素を楽しんでいるのと同じような状況であるとみることもできます。
人生イージーモードを選べなかったことにより、ゲームクリアにはより長い時間や労力がかかるかもしれませんし、先にクリアをしてしまった人に対して「いいなあ」と感じるかもしれません。
しかし、人生は本来自分なりのやりこみ要素を追求する方が楽しかったりします。
そう考えると、人生ハードモードはハードモードなりに楽しめるのではないかと思います。