世の中には色んなビジネスモデルがあるようですが、基本的な動きは、
①お金を払うなど何かしらの資源を投下して、何かの商品を仕入れる
↓
②仕入れた商品に付加価値を付与し、商品の価値を高める
↓
③バリューアップされた商品を仕入れ価格より高い価格で売却し利益を出す
となるでしょう。
例えば、①ホットケーキミックスなどの原材料をスーパーに買いに行き、②キッチンでホットケーキを焼き、③できあがったホットケーキを他人に売却する、などの単純な物から
①ボロ物件を買取り、②DIYをすることによって物件を再生し、③再生された物件を他人に貸して家賃収入を得る又は売却する、という形もありますし、
①本を購入して、②その本から得られた情報や知見を自分の既存の知識と編集し、③その編集された知識や知恵を他人に与えて対価を得る、
などなど色んなパターンがありますが、おおよそ①から③の動きをするようです。
そして、このビジネスモデルの中では仕入れた商品の価値を高めて売却することが前提になりますが、②において仕入れた商品の価値を高めるためには、そこに何かしらの付加価値を付与する必要があります。
そして、②における付加価値の付与を行う事がいわゆる仕事における核心部分ということになりそうです。
この②における付加価値の付与というのは、「誰かの労働時間に基づくその人の強みの発揮」が基本的に活かされていると考えられます。
何故なら、誰でも②の過程が行えるのであれば、敢えて③によってお金を払って他人から商品を購入する必要はないと考えられるからです。
もちろん、時間が無いからと②の過程をスキップさせたいがために、③によってお金を払うことによって事実上他人の時間を買うことはあるでしょう。
具体的には、普段から自炊の能力がしっかりとあり、自分でスーパーに行って買い物をして、家の中でしっかりと料理をして食べるということが能力的に可能な人であるにも関わらず、敢えてコンビニで夕食を買ったり、スーパーで既にできあがったお総菜を購入するという動きをすることがあります。
このような人は、純粋に夕食を調理する時間を確保できなかったり、物理的には一応その時間を確保することはできるものの、他のことにその時間を使いたいなどの動機によって、③によってお金を払うことによって事実上調理などのために要する他人の時間を買うという行動をしていると考えることができます。
このように、おおよそほとんどの人に可能(とされる)な労働によって付加価値が付与される場合は、単純労働と呼ばれており、③において、主に純粋に自分の労働時間をスキップさせたいという人が商品を購入するようです。
このような単純労働の場合誰でもできるが故に大した付加価値が付与されていないという見られ方をされやすいという特徴があります。
反対に、付加価値の付与の際に「ほとんどの人にはなかなかできないこと」が行われた場合、それは熟練労働だとか複雑労働だとか言われて、単純労働と比較して多くの付加価値が付与されていると見られやすいです。
このような「ほとんどの人にはなかなかできないこと」によって付加価値の付与が行われた場合、その希少性故により③において高い商品の価格で売却されやすく、結果的に大きな差額利益を得ることが可能になるでしょう。
したがって、極めて単純に考えると、この「ほとんどの人にはなかなかできないこと」を活かす形で付加価値を付与することによってビジネスを展開すれば、その分利益を得られやすいと言えそうです。
この「ほとんどの人にはなかなかできないこと」というのは「自分の強み」と表現されることもあります。
したがって、この文脈で考えると、この「自分の強み」をやらを見つけることが重要になりそうです。
しかし、そもそもの話、「自分の強み」というのは他の人たちと比べた時に比較的優れている点を指すと考えられます。
それゆえに「自分の強み」というのはもともとの才能に加えて、他人よりも比較的時間をかけて磨き上げられたスキルを指すことが多いと考えられます。
才能×修練の時間
という変数によって「自分の強み」がより差別化され磨かれていきます。
単なる才能だけでは、「自分の強み」にはならず、スキルを磨くための時間がさらに必要になります。
そして、一定の才能がある場合に、この修練の時間が他人よりも長ければ長いほど「自分の強み」はより磨かれていき、希少性が高まる傾向にあるということになりそうですね。
これは例えば、生まれつき身長が高いなどの要因により体格が恵まれた人がいたとして、単にそれだけでは一流のアスリートになることは困難であるという話です。
実際には、スポーツがしやすい、体格に恵まれているという「才能」があった上で、特定のスポーツでひたすら練習時間を積み続けることによって一流のアスリートになる可能性が開かれます。
様々な事情でそもそも練習時間を取ることができない人はスキルを磨く機会を失っているため、たとえ才能があったとしても、「自分の強み」を手に入れることができない可能性があると言うことです。
ここで、練習時間、だとか、修練の時間という表現が出てきているので、どうしても「苦行」のイメージがつきまといますが、実際には、この「苦行」をやっている本人は楽しんでいる場合があります。
例えば、小さい頃からパソコンをいじるのが好きな人がいるとしたら、パソコンを常にいじっても苦痛に感じません。
それどころか本人は楽しみながらこのパソコンをいじったらどのようなことが起こるのか、どんな反応があるのか、何をしたらより面白い結果が出てくるのだろうかと考えながら、いつの間にか修練の時間を積んでいる場合があるのです。
このように、本人が夢中になって取り組んでいることそのものが修練の時間を積むことに繋がっていることがあるため、
「好きなことを仕事にするのが良い」
と言われるのでしょうね。
もっとも、そのようにして創られた「自分の強み」が仮にあったとしても、その「自分の強み」によって付加価値が付与されたものに大した需要がなく③において他人に売却されないことがあります。
このような事もよくあるため、
「好きなことを仕事にするのは難しい」
とも言われるのでしょうね。
ここで、稼げなくても生きていける人は、③において他人に需要が全くないとして商品が売却できないとしても、そんなことなどしらん、とばかりに全く意に返さずに、「自分の強み」をひたすら磨き、「自分の強み」を活かした独自の労働生産物を造り続けます。
このような人は、クリエイターや芸術家などと呼ばれることもあります。
たまに、生前は全く他人から評価されずにいたのに、その死後に絵画が評価されて急にその値段が上がったりする画家などがいたりしますが、そのような人は他人からの評価に左右されない芸術家の側面もあるといえそうです。
しかし、現実的には多くの人は稼げないと生きていけないという状況に置かれているため、自分が好きなことを仕事にできずに稼げない場合は、他人からの需要を気にせざるを得ないといえそうです。
そして、他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるために、そのための「自分の強み」を「自分が好きなこと」とは別に意識的に磨く必要があるということになりそうです。
このような他人からの需要のある商品を作り出すための「自分の強み」を意識的に磨かなくてはいけないが故に、取りあえず、学校には通っておけなどということが言われることが多く、実際に、これが非常に無難なアドバイスとなっているという実情があります。
このような無難なアドバイスに従って多くの人は取りあえず学歴は取りに行こうだとか、資格は取っておこうなどといったことを考えます。
しかし、よくよく考えると、そもそも稼げないと生きていけない人がやらないといけないことは上に書かれているとおり、「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」を磨くことです。
そして、「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」というのは、学歴や資格を取ることで手に入れるものとイコールであるとは限りません。
「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」とは何でしょうか?
単純に考えれば、「他人からの需要のある商品」とは何かを考えた上で、「それを生み出すために必要になる付加価値」を一体どうやって付与するか、考える必要があるのではないでしょうか。
そして、「他人からの需要のある商品」とは何かを考えることは一般的にはマーケティングと呼ばれます。
そして、このマーケティングの結果、「それを生み出すために必要になる付加価値」が何かというのもおおよそ判明してきます。
そして、「それを生み出すために必要になる付加価値」を付与するためのスキルを「自分の強み」として磨くことができれば良いわけです。
このような過程を丁寧に確実に押さえていくことができれば、実は学歴や資格は必要不可欠ではないということになります。
しかし、問題は何かというと、「それを生み出すために必要になる付加価値」を付与するためのスキルを「自分の強み」として磨くことができれば良いと言っても、上記の通り、「自分の強み」というのはもともと才能×修練の時間によって構成されます。
それゆえに、そもそもそのような「自分の強み」を手に入れようがない人たちが出てくることがあり得るということではないでしょうか。
そのような「自分の強み」を手に入れることができない以上は単純労働をせざるを得ないため、運が悪ければ一生多くを稼ぐことが困難であるままで生涯を終えてしまう人が出てくる可能性があるわけです。
そのような人は一体どうすれば良いのでしょうか?
実は、実際には単純労働しかできない人であっても、そこそこのお金をもらう方法は一応存在します。
典型的な方法は、実際には大したスキルが無くてもそこそこの学歴さえあれば入ることが可能な大企業に正社員として入社して、そのまま特に問題を起こさないようにして定年付近まで粘ることです。
この方法をとった場合、大企業自体が傾かない限りは、しばらく持つことができます。
したがって、この方法を目指すために学歴を取りあえず手に入れておくという発想は悪くないと私は考えています。
なぜなら、実際に社会に出る年齢になるまでに自分に「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」が存在し得るのか、存在し得ないのか、というのは正確には誰にも分からないからです。
それに、20歳ぐらいの時には「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」を明らかに持っていたはずなのに、社会がいきなり変わってしまったことで、40歳ぐらいになった時には、「他人からの需要のある商品を作り出すための付加価値を付与できるようになるための強み」をいつの間にか失っていたというシチュエーションに直面してしまう可能性があるわけです。
これは自営業者などの場合に、20代で大成功をしたにもかかわらず、しかし、その栄光が長くは続かなかった、というパターンとして現れやすいのではないでしょうか。
このように、昔はすごい人だったが今は・・・・・・という話になってしまう可能性というのは十分にあり得るのです。
このような、時代の荒波に巻き込まれて自分がいきなり何の強みも持たない凡人になってしまう可能性というのを視野に入れると、リスクヘッジのために取りあえず10代のうちはまずはしっかりと学歴を取りに行き、大企業に入社できる機会を確保しておくという戦略は決して否定されるべきものではないと私は考えています。
私はチキンであるが故に、いちいちリスクを気にしますので、それゆえに、このような現実的な側面もあることを示しつつ、
とはいえ、その一方で、私個人としては、これだけ世界中がネットで繋がっている時代でかつ変化が激しい時代においては、自分が好きなことでもある「自分の強み」に対する需要がどこかのタイミングで、世界のどこかで発生している可能性を何も最初から諦めなくとも良いのではないか、とも思うのです。
極めてニッチな需要というのは私たちが知らないだけで実は世界のどこかで発生している可能性があるのです。
どうせならば、それを追求していきたいと私は考えています。
やっぱり、せっかく生きていく以上は、自分が好きなことでもある「自分の強み」を誰かのために活かすことができたら嬉しい気持ちになります。
そのため、最初から何もかも諦めてしまって絶望するのではなく、自分が好きなことでもある「自分の強み」が世界のどこかできっと活かされると信じて、その信念に基づいて生きていくのが良いのかなと思うのです。