長年連れ添った夫婦に関してよくみる描写として、
旦那さんの方が「おい」と言うだけで、
奥さんの方がすっと立ち上がり、粛々と台所などでお茶をくみ、それを旦那さんの目の前まで持ってきてくれるという描写を見ることがよくあります。
このような描写は自ずから、「長年連れ添った夫婦は関係が醸成されているので、旦那さんが「おい」というだけで、奥さんは「あ、お茶が欲しいのね」ということが瞬時に分かってしかも、目の前に用意してくれるという素晴らしい関係となる」ということを示してくれます。
近年において、「そのような夫婦関係は一体どうなんだ?」とか、「奥さんを家政婦みたいに扱うな」などといった動作そのものではなく、その意味づけの部分について批評も盛んに為されているところです。
そこは取りあえず今回は置いておくとして。
このような、「おい」と言うだけで自動的にお茶が目の前に出てくるという動きそのものに対して、私自身は興味深いなと感じることがあります。
似たような光景は、勤め先においても見られます。
上司が「あれやっておいて」というだけで、部下は瞬時にその指示内容を把握し、粛々とタスクを完了させる、というのもこれと似ています。
場合によっては、上司が「あれやっておいて」と言うまでも無く、「優秀な」部下がすべてやるべきことをやってくれるということもあります。
これは、家庭において、空気感から旦那さんが「家事とかやっておいてよ」とかわざわざ言わなくても、奥さんが自主的に動いて家事を全てやってくれるというのにも通じます。
これらはともに、「最小労力で奴隷(的な立場にある人)にやって欲しいことをやってもらっている」状態かと思われます。
このような状況は非常に便利かと思われますが、しかし、このような奴隷(的な立場にある人)に色々なことをやってもらえるようになるまでには越えなければならないハードルがあります。
それはまず①相手に指示(しようと思っている)内容を正確に把握させることがまず必要です。
普通に考えたら、「おい」という言葉から、「お茶を酌んできて、自分の目の前まで持ってきて欲しい」という意味合いは読み取れません。
「おい」というのはただの呼びかけの言葉に過ぎないのですから。
同じように、「あれやっておいて」も「あれって何?」とか、「やっておいてって何をやるの?」と思わずにはいられません。
これだけでは、何も伝わってこないのです。
プログラミングを扱った人ならば分かると思いますが、コンピュータに「おい」という指示を書いただけで何かをやってもらえることはまずありません。「おい」の具体的な処理方法を少なくともどこかに記述する必要があります。
それも考えると、「おい」に代表されるようなわかりにくい指示というのは人間に対してであっても、最初からこれを行っていたのではなく、長年にわたって、同じような指示を何度も何度も繰り返した結果、相手にそれに紐付く具体的な指示内容を把握させ、最小限のコミュニケーションで済むように省エネ化を図った結果生じた物と考えられます。
この、「長年にわたって、同じような指示を何度も何度も繰り返した結果、相手に指示内容を把握させる」行為は、近年のAI、機械学習に関する話に出てくるところでいうと、「教師あり学習」のようなものでしょうか。
教師あり学習の場合、教師となる立場の人が何度も何度も時間をかけて学習をさせる必要がありますから、自ずと時間がかかります。
これをAIではなく、人間に対してやろうと考えるとどうしても相手との間で長期的な関係性というものが必要になってきます。
この長期的な関係性というのが、「長年連れ添った夫婦」「よく知る家族関係」や「何年も同じところで勤め上げた勤め人」というもので担保されています。
これは、一度結婚したら基本的には離婚はしないで同居するという考え方や、なんだかんだで家族は大事で関係性は保つべきと言う考え方や、一度勤め先に就職したら基本的に終身雇用として同じところで長年頑張って働こうという考え方によって支えられている部分があると思います。
このような固定化された状態によって、相手との長期的な関係性を維持し、それに基づいて、時間をかけて指示内容を把握させることで、短い、一見分かりにくい指示でも通じ合うという極めて便利なコミュニケーションの土壌を作っているわけです。
話は変わって、テルマエ・ロマエという映画化された作品があります。
これは、以下の通りのあらすじのタイムスリップ物です。
舞台はハドリアヌス帝時代、西暦130年代の古代ローマ[注 1]。浴場を専門とする設計技師ルシウス・モデストゥスは、革新的な建造物が次々に誕生する世相に反した、昔ながらの浴場の建設を提案するが採用されず、事務所と喧嘩別れしたことで失業状態に陥ってしまう。
落ち込む彼の気を紛らわせようとする友人マルクスと共に公衆浴場に赴いたものの、周囲の騒々しさに耐えかね雑音を遮るため湯中に身を沈めたルシウスは、浴槽の壁の一角に奇妙な排水口が開いているのを見つけ、仕組みを調べようと近づいたところ、足を取られて吸い込まれてしまう。不測の事態にもがきながらも水面に顔を出すと、彼はローマ人とは違う「平たい顔」の民族がくつろぐ、見たこともない様式の浴場に移動していた。
この作品において、ルシウスが現代の技術に感動して、「一体、何人の奴隷を使っているんだ!?」と驚くシーンがあります。
現代においては、技術革新によって人間がやらなければできないような労務も機械によって代替されている部分が増えてきました。
しかも、その際の指示の仕方も簡単になっています。
具体的には、家電のリモコンがそうですね。例えばエアコンなどもリモコンで冷房を入れるのか、暖房を入れるのか、一体室温を何度にするのか、いつまで運転を続けさせるのか、というのもすべて指示できます。
古代だったら、これは奴隷に内輪とかを仰がせて、「もっと風を強くして」「もうやらなくていいよ」とか口頭で指示をする必要があります。
もし、奴隷の方が覚えが良くて、いちいち口で指示しなくても最適な内輪の仰ぎ方をしてくれるのであれば、リモコンを使うよりもそちらの方がリモコンのボタンの取扱説明書を読む手間もなくて楽という発想もあり得るかもしれません。
しかし、この点に関しても、最近はIoTがどんどん進んできて、スマート家電というものが出てきているとおり、学習によって最適な室温状況という物を予め外出先からセットしたりすることもできるようになりつつあります。
使い方さえ覚えてしまえば、家に帰った後に奴隷を使うよりも便利に利用することができます。
しかも、近年では、Googlehomeやアレクサに代表されるように、口頭で指示することでさまざまな家電を使ってくれるようになってきています。
これらの商品に見られるように「そもそも指示の仕方すら簡素にしてしまう」という試みは非常に興味深いです。スマホもそれまでの携帯電話にあったたくさんのボタンを配して直感的な操作を可能にしていることからそのようなコンセプトの商品だと思われます。
もともと家電においては、電子レンジや洗濯機に見られるように、たくさんのボタンを設置をして、指示内容をたくさん作ることによって便利にするという形で高度経済成長期からさまざまな商品が生み出されてきました。
しかし、指示内容の幅を広げるためにボタンを設置しまくると、今度はボタンの機能を解説するための取扱説明書が分厚くなってしまい、新しいことを逐一学習する意欲のある人以外は取扱説明書など読む気になれんとして、技術革新を持てあましていた部分があったと思います。
このように、まるで奴隷的な立場にある人に指示するがごとく、簡素に、しかも相手に伝わる適格な指示をすることができるような状況を簡単に作ることができるようになってくれば来るほど、人間による労務というのは不要という話になってくるのだと思います。
このような形で、技術革新によって、生きていくために最低限必要な労務が機械に代わることことでどんどん削減され、しかも、その導入コストも安くなっていけば行くほど、いわゆる最低限の生活費というものは少なくなり、結果的に、生きていくために働かなくてはいけない時間というものが短くなり、経済的自由の達成への難易度も低くなってくると言うのが私の考えです。
さて、もうひとつ、私が重要だと思っているのは、奴隷(的な立場にある人)に色々なことをやってもらえるようになるまでには越えなければならないハードルには、②奴隷的な立場のにある人が指示内容を把握した後に、その指示内容を遂行するためのインセンティブがなければならないという点です。
能力的には空気を読める人が敢えて空気を読まない行動を起こすことがありますが、これは指示内容を把握しているにもかかわらずそれに従うだけのインセンティブがその人に対して与えられていないことによります。
例えば、近年の家族関係や、勤め先における関係についてもこれは言えると思います。
長年連れ添って、旦那さんの指示に粛々と従っている奥さんという像についても、奥さん側にその旦那さんの指示に従いこれを遂行することに対するインセンティブがなければそのような動作をしようとは思わないでしょう。
長期的な関係性というのは、よく言われるようにWin-Winの関係を気づく必要があり、一方だけが得をする関係性というのは、長期的な関係性にはなりにくいです。
もしかしたら、奥さん側が旦那さん側に対して抱く愛情がそのような長期的な関係性の一端を担っている可能性はありますが、おおよそは経済的な理由や、子供の面倒を見ておかなければならないからという辺りが強そうです。このインセンティブが切れて無くなってしまったら関係は終了です。
そうでなければ、それなりに収入が本人にあって旦那さんの収入に頼らなくても済む状況の女性の方が離婚に踏み切る決断が早いことの説明がしにくいですし、子供が巣立った後の熟年離婚がこれほど話題に上がることもないでしょう。
なんらかの一緒に過ごすだけのインセンティブが切れて無くなってしまった瞬間に、Win-Winの関係が途絶えてしまったのならば、そこから先の長期的な関係性を結ぶ必要も無いわけですし、旦那さんに「おい」と言われて何をやって欲しいのか把握していたとしても、奥さん側が指示に従ってくれることはありません。
勤め先においても、同一企業で働いて、終身雇用の保障、すなわち、生活の保障をしてくれ、勤続年数に応じて基本給が上がり、退職金もそれなりに積み上がるというインセンティブがあるからこそ、同一企業のカルチャーを勤め人が学習し、空気の読める人材に育つわけです。
近年はこのあたりが裏切られそうな予感が出てきているためか、若者としてもご恩と奉公のような関係、Win-Winの関係が期待できないと察知したり、最初から転職をする前提で勤め人を始めるといった動きも出てきているのではないでしょうか。敢えて給料以上の指示に従うインセンティブが本人にとって感じられないのですから、その結果、無駄な残業はしないことを始めとした「空気を読まない」行動をする若者が増えてくるわけです。
とはいえ、これは逆に言えば、相手にインセンティブを与えることができるのであれば、Win-Winの関係、長期的な関係性を構築することが可能になるという一種の希望もあるともとらえられます。
マネジメントが上手い上司の場合、部下に意識的に「仕事のやりがい」を始めとして、その人が求めている物を的確に与えることができるため、特定の部下についてきてもらえるということにもつながります。
このように、相手にインセンティブを与えることというのを意識するだけでも、相手との関係は変わってくると思われます。
このような話は上記にあげられた、「AIに仕事が奪われてしまう時代」における仕事人としての生き残りを考える際にも参考になると思います。
基本的に、生活上において必要になる労務はどんどん技術革新が進み、人間による労務が不要になってしまうということを前提に考えると、そもそもほとんどの仕事は不要という話になってしまい、いわゆる専門性で戦おうとする発想だけでは短い時間稼ぎにしかならないのかなと考えています。
それなりに長期間時間稼ぎをしたいと思うのであれば、顧客との関係で、相手のニーズを読み取り、「あなたが欲しいものは、指示したいのはこれですよね?」と的確に提案できるコミュニケーション能力を磨くことが重要になってくるのではないでしょうか。
もう仕事なんてしたくもないし、と思っている人は、上記のように、現代においては人間同士が長期的な関係性を結ぶための土壌が根本的に、構造的に薄れているということを前提に、自分が何をするのか、自分の人生はかくあるべきかと考えていくことが重要になってくるのではないでしょうか。