最近、
「稼ぎを減らして、家族や友人を始めとする人間関係を濃密にしたほうが人間は幸せだ」
といった主張を見かけました。
これ自体は、昔からよく見かけるタイプの主張であり、
私としても特に後半部分に対しては、
「もしかしたら、そうかもしれない」
と感じました。
しかし、前半部分である
「稼ぎを減らして」
といった部分にはどうしても違和感を感じてしまいます。
というのも、論理的な飛躍があるのではないか、と感じるのです。
すなわち、この手の話に関しては、
「稼ぐためにはどうしてもそのための労働時間が必要だから、その労働時間を減らして、稼ぎの部分を減らした方が良い」
という暗黙の前提があるように感じるのですね。
要するに、本来、必要なことは、
「稼ぐために必要な労働時間を減らして、その分家族や友人などの人間関係に使う時間に回した方が良い」
という話であって、
「稼ぎを減らす」
ということそのものではないはずです。
例えば、金融資産で1億円以上持っている人、いわゆる「億り人」は、その運用利回りだけで、年収400万円程度は資産所得として、期待できますが、
その「稼ぎ」のために実は労働時間はほぼ必要ありません。
ある人が一年もの間労働して得られるだけの「稼ぎ」を全く働くことなく得ることは実は可能なのです。
また、「稼ぎ」の内容が資産所得ではなく、労働によるものに限ったとしても、いわゆる時間単価を上げることによって、
「昔は、年収400万円を得るためにXX時間も費やす必要があったが、今はその数分の一で足りる」
という状況を創り出すことすら可能です。
つまり、稼ぎを一切減らすことなく、自由な時間を得ることは工夫が必要ではあるものの可能なのです。
冒頭のような言説「稼ぎを減らして」といったワーディングを見ると、私の場合、
「この人は、投資で稼いだり、自営業で稼いだり、起業して稼いだことのない、要は、サラリーマンの経験しかない可能性が高いな」
という目で残りの文章を読みます。
多くの場合、残りの話も、勤め人としての視点から外れておらず、
投資家としての視点、
自営業者としての視点、
会社経営者としての視点
のいずれも欠けているままに展開されているので、この手の文章を見ると、
「多様な視点がなくてあまり参考にならない」
と感じることが多いです。
サラリーマンとして、勤め人としてのみの働き方をしている人は、どうしても、
「時給を上げることは、ほぼできない」
「頑張って働かなければどうあがいても年収は上がらない」
といった固定観念に縛られがちです。
しかし、このような固定観念に縛られてしまうと、自分の人生の可能性を閉ざすことにつながります。
「自由時間を得るために、実は、稼ぎを減らす必要はない」
という認識を持てると、この手の話に対して、より冷静な受け止め方ができるようになるでしょう。