私は普段から手元で意識的に日記をつけています。
人生の手控えみたいなもので、行動記録としても活用できますし、何かのイベントがあったときの感想を記す場合もありますね。
また、これに加えて、今後の方針をどうするべきか、といったことを書き記すこともありますし、教訓を考えることもあります。
このような活動を続けていくと、面白いことがわかります。
それは、
「ずっと、使用していた単語がある時点からふっと無くなることがある」
ということです。
これは、日記内検索を活用するとよくわかります。
それまでの時期は、
「●●は~」
などと日記内でさんざん言及し、何かを語っていたりしますが、
ある時を境に、
その話題がぱったり消えるのですね。
そして、異様に言及される頻度が減り、ごくまれに、思い出したかのように言及されるだけ、といった状況になります。
このような状況となったとき、
「日記内に書くほど、意識していたものが『当たり前』のものとして無意識に落とされている」
という場合があります。
例えば、ダイエットをしようとして、食生活を探求している際には、
「○○を食べた方がいい」
とか
「○○を食べると、こんな感じになる」
といった形で意識的に考察を行っているのですが、
ある程度の試行錯誤を完了して、後は続けるだけ、といった状況になったら、
意識的に何かを考える必要はなくなるのですね。
そして、無意識なものとして、続けて、習慣化をしていくと、
「これができるのが当たり前」
「これをやるのが当たり前」
という感覚になるのです。
周りの人の例を見ていても、
「もっと稼ぎたい!」
とか
「もっと金が欲しい!」
といった感覚を持っている人は、稼ぎ方などへの言及がとても多かったりしますが、
「今や稼げるのは当たり前」
と考えている人は、それに対する言及がぐっと減り、全然違うことを意識している場合も多いです。
ものすごく稼いでいるのに金の話をしない人、というのはこのような「当たり前」の感覚があるのでしょう。
いわゆる、成金と呼ばれるの人の中は、金稼いでいるアピールがやたらと激しい人が存在しますが。
それは、まだその人にとって、その状態が「当たり前」のところまで至っていないから、
という目で見ることも可能でしょう。