本日は、2021年3月11日。
東日本大震災があった2011年3月11日、3.11.からちょうど10年間経ちました。
今日は仕事を淡々と進める傍ら、「私のこの10年間はどのような歩みだったのだろうか」と考えていました。
何故、3.11.に着目するかというと、他の震災と比べて私の人生が変わる大きな契機をもたらしてくれたからだと感じているからです。
他にも過去に大きな震災はありましたが、3.11.がなければ、社会や自分の人生に対してもっと真剣味のない生き方になっていたのは間違いないと思います。
特に原発事故が起こった後の一連の流れが、当時10代だった私自身に対して「今までのような適当な生き方をしてはいけないのかもしれない」と感じさせたのです。
当時は選挙権もなかったので、何をすることができるのか、何をするべきなのかも分からず、取りあえず自分は勉強をしなければいけないのではないか、と強く感じたのです。
その頃から、思えば、将来、自分も勤め人として働かないといけないのだ、ということを思い、しかし、ブラック企業の話などを聞くと私自身も勤め人として労働をいそしみ身体を少しずつすり減らしていくだけの未来となってしまうのではないか、と、将来を悲観せざるを得なかったのです。
その頃から、ワークライフバランスが整っている会社だったらいいかもしれないとか、公務員だったら安定しているのかもしれないとか、いやいや、そもそも企業で働くということ自体想像が難しい、取りあえず介護職とかは本当に私には厳しいはずだ、できない、無理だなどと考えていました。
当時から将来とかのことを考えて不安になっていましたが、同時に3.11.の後は、何か、自分は変わらなければならないという漠然とした気持ちが胸の奥底から湧いてきたのを覚えています。
しかし、その頃から、では自分は何になりたいのか、何をしたいのか、どんな仕事だったら良いと思っているのか、についてはなかなか答えを出すことができず、他人からの承認に対する漠然とした飢えのようなものも当時はあったような気がします。
承認欲求というのは、ガソリンのような物で、他人の役に立っているという感覚が得られるための行動を行うハードルが下がります。
そして、自分の行動によって、「ありがとう」とか、「すごいね」とか、そういったポジティブなフィードバックが返ってくるたびに承認欲求が満たされ、その気持ちよさに震えていたのも覚えています。
しかし、そのように承認欲求を満たし続け、そのための行動を行う為の時間とお金とエネルギーを使いつづけていた時、ふと、これは単純に何かに飢えている自分が気持ちよくなっている以上の効用が果たして存在しているのか疑問に感じたのです。
学校でも、勤め先でもこのようにいつの間にか承認欲求に自分の行動がコントロールされ、ひいては自分の人生が事実上制約されてしまうことは数知れず、と思われます。
人によっては親もここに入ってくるでしょうか。親の期待に応えるために頑張って努力している人もいるようです。
しかし、親の期待に応えるためだけに努力をしているだけで本当に自分の人生を歩んでいると言えるのでしょうか。そんな人生で本当に良いのでしょうか。
基本的に親の世代というのは20年や30年以上は昔の感覚でいるため、変わってしまった現実を直視できず、的外れなアドバイスをしてくる人もいます。
そのような人の表面的な「こういう会社に勤めて欲しい」などといった要求に応えるだけで、真の願い、本質である例えば「幸せになって欲しい」という要求などには応えることができない可能性も否定できません。
承認欲求というのは基本的に他者評価を前提とするのですから、他者の評価基準がそもそも良くなければ自分の行動が本当に適切かどうか怪しくなるわけです。
他人の持つものさしに振り回されずに、自分こそが自分の評価権者であるべき、他人からの評価はそのための参考情報に過ぎない、という整理をしてからはかなり生きやすくなった気がします。
総評すると、3.11.から今日までの10年間は、3.11.以前のそれまでの10年以上の年を経た自分と比べて劇的に成長をし続けていると感じています。
そのように、考えて、では次の10年間は私はどのように歩みを進めることができるだろうか、と未来を思い始めました。
ここ10年間で紆余曲折ありつつここまで色々なことができるようになったのだから、ここからの10年間も自分に期待できるのではないかと密かに考えています。
10年前は全く予想もしていなかったような勤め先に就職し、現在も頑張っていることも考えると、さらに10年後はどこまでいけるのか、想像以上に先へ進めるのではないか、と考えて今から10年後の未来を楽しみにしています。
そのような、10年後の私自身を想像して今からできる種まきを少しずつ頑張って行けたらいいな、と考えています。
種がまかれたままそのまま虚しく枯れてしまうかもしれませんし、思いの外素晴らしい収穫物が得られるのかもしれませんし、結果はどうなるのかはわかりません。
それでも、種をまかなければ何かが実ることもあり得ないのですから、それを思えば試行錯誤を続けつつもやはり種まきを行うべきなのでしょう。
差し当たり、今年設立した法人は種まきのうちの一つとして大事に育てていきたいと考えています。