ふと、「究極の、資産やストックとは何だろう?」と考え始めました。
というのも、ストックというと、どうしても、
「軌道に乗るまで時間がとにかくかかるもの」
というイメージです。
すなわち、一般的にストック収入という言葉があります。
例えば、株式、不動産、ブログ収入などなど
これらはいずれも、まともな資産として扱われるような状態になるまでにはとてつもない時間や労力がかかります。
株式と一口に言っても、ピンからキリまでありますが、100年以上続いている会社の株式であった場合には、100年前以上の人たちが会社を創業してから今までそれを支えてきた人たちがいたからこそ、それなりの値がついていると考えることができます。
不動産も、土地と建物に大きく別れますが、土地はともかくとしても建物を建築するのにも多くの人たちの労力が間違いなくつぎ込まれています。
そして、ブログについても、一記事を適当に書くだけだったらすぐに終わるかもしれませんが、それなりの分量のブログを作成するためにはやはり時間がかかります。
もっとも、これらのストックについては、自分の時間のみならず、一応、他人の時間を用いて形成することができるという特徴があります。
他人の時間を用いて、その労働時間を費してもらうことによって、その付加価値が物に付与され、それなりの物ができあがるわけです。
そして、そのできあがった物、商品を購入することによって、私たちはできあがった資産を手に入れることができるようになります。
この商品の購入にあたって通常は貨幣を用いるわけですが、その貨幣は自分が労働時間を費やして働いて一生懸命稼いだ上に貯めたものかもしれませんし、自分の親が労働時間を費やして働いて一生懸命稼いだ上に貯めたものが相続などによって自分の手に渡ったものを用いているのかもしれません。
犯罪レベルになると、他人が持っている貨幣を強奪することによって商品の購入のための貨幣を用意している人もいるかもしれません。
そして、その他人が持っている貨幣というのも、元を辿れば、誰かが労働時間を費やして働いて一生懸命稼いだ上に貯めた物かもしれないです。
また、稼ぐ力を代表とする人的資本は、勉強したりしてスキルを身につけたりしないと高められないという意味で、その形成のためには時間が必要です。
人間関係を基礎とする社会資本も、人間関係を構築するためには基本的には時間が必要であることを考えると、その形成のためには、時間が必要です。
そして、いわゆる有形資産を代表とする金融資本も、その有形資産の元を辿っていくと、その形成のためには結局時間が必要です。
このように考えていくと、ストックや資産と呼ばれる物は、自分も含めて誰かの時間を用いないと基本的には形成されないものと言えそうです。
そして、その誰かの時間というのは、商品を介して、何世代も前の物に、その時代の誰かの労働時間が費やされることによって付加価値が付与され、現代までその価値が対象化されています。
そうしていくと、自分以外の誰かの労働時間が私たちの身の回りにある商品の中に既に内在していると考えられます。
こうやって考えていくと、自分自身が労働時間をつぎ込んで何かを生産したとしても、それはとてつもなくちっぽけな物でしかないととらえることもできます。
もっとも、そのちっぽけな物の生産があらゆる場所であらゆる人が労働という形を持って同時並行で行われているがために、常に物に対して何らかの付加価値が今もなお付与され続けているということになりそうです。
そして、この労働というのは、代替不可能と言われるものが存在はするものの、しかし、それが行える人は数限られており、ほとんどの人は代替可能な労働を行っています。
すなわち、勤め人として働いている人が典型的ですが、「あなた以外に代わりはいるから」と言われてしまう内容を持ってほとんどの人は労働を行っているわけです。
「いや、私は高度なスキルを持っているから」
と思うかもしれません。
確かに、そのスキルというのもその人自身があまりにも長い時間をかけて修練の末に身につけたといえばそうなのかもしれません。
しかし、今はその修練の形跡を分析すれば、どうすれば身につけられるスキルなのか、ということをトレーニングメニューとして割り出せる世の中になっています。
そのようなテクノロジーの活用によって、比較的学習能力が高い若い人が悠々と大人を抜かしていく姿が今後は当たり前になっていくことでしょう。
そうやって考えていくと、自分の資産として、唯一無二のスキルを手に入れるということ自体が極めて困難な時代になってきているのではないか、とも思うわけです。
とすると、
「では、その辺にいる人が個性を発揮することってそもそもできるのか?」
ということも気になってきます。
お金を払って事実上他人の時間を購入することによって色んな事ができる世の中ですので、
ますます、「敢えて、自分の時間を使って一体何をするのか?」ということは重要になりそうですね。
また、よく人に与えられた時間は唯一平等であるということも言われますが、
たとえ、与えられた時間は平等であったとしても、「自分のための時間」として確保できる時間というのはかなり不平等になっているのではないかと思います。
というのも、いわゆる勤め人の立場の人は雇用主に対して「自分の時間を売る」という形で労働力商品を売っているわけですが、
このような労働力商品を売って対価としての賃金を得られないと生きていけない立場の人は必然的に、そうでは無い人と比べて「自分のための時間」というのが大幅に削られてしまっています。
一日8~9時間労働だとしても、1年で見ると約2000時間は雇用先に「自分の時間」を捧げているわけです。
これを40年近く続けると、単純計算で8万時間は持って行かれますね。
実際は、純粋な労働時間以外にも時間は吸い取られてしまっている事が多いのでさらに増えると思われます。
もっと言えば、健康格差という言葉も最近あるように、そもそも生活習慣によって健康寿命が大きく異なるらしいですが、これが色々な理由で短くなってしまっている場合、「自分の時間」そのものが比較的短くなってしまっている可能性が高そうです。
そのため、そもそも、自分の個性を発揮するために必要になる超重要な資源である「自分のための時間」は、
①健康寿命を延ばす
②勤めすぎないなど、自分のためではなく他人のために使っている時間を減らす
という形でどうにか工夫しないとガンガン削られてしまうという現実がありそうです。
しかも、上記に書いたとおり、「自分のための時間」を最大限確保したとして、
「で?それで何をするの?」
という問題が次に立ちはだかります。
もちろん、「自分のための時間」の使い方そのものは人それぞれであり、自由です。
家族と関わり合う時間を増やしたり、自分が好きな娯楽を楽しんだりすることも良いでしょう。
とはいえ、何か自己実現的活動をしたいと特別に考えた場合には、真面目な人ほど
「●●って私じゃなくても他の人でもやろうと思えばできるよね?」
という考えが頭の中を通り過ぎてしまう人もいると思います。
自分の完全上位互換とも呼べる存在が世の中にいることもままある中で、私たちはどうやって個性を発揮することができるのか?
そう考えたときに、
「どこの誰かも分からない他人の時間ではできなくて、自分の時間でしかできないことは何か?」
と考えていくと、私は
自分の時間でしかできないことは、自分の人生を送ること
になるのではないのかと思いました。
いや、それは当たり前では?と思うかもしれません。
そうだとは思います。
しかし、その自分の人生を送って、その記録を克明に残す事によってそれが一つの「自分史」として、一つの小さな物語となり、一つの何者でも無い個人にとっての個性的な資産となるのではないか、
そのような自分史を日々の中で編纂し続けることが、個人にできるまさに一生をかけた最大の資産形成ではないか、と考えるのです。
もちろん、明確に「これが自分史です!」という形で残す必要はありません。
定期的に本を出版してみるのも良いですし、定期的にブログを書いて公開してみるのも良いと思います。
または芸術方面に歩を進める人もいると思います。
いずれにしろ、何らかの表現行為を通じて、「自分史」を編纂し続けることが、この世の中に自分という存在の痕跡を残すための有力な手段となるのですから、そのような資産形成にトライしてみるのは大いに意義があるのではないか、と感じます。
そして、「自分史」の大作をもし創りあげたいと思うならば、
そのような野望があるのであれば、まずやるべきことは、上記に書いたとおり「自分のための時間」をなるべく多く確保することでしょう。
「自分史」を創りあげるためには、結局のところ、色んな経営資源が必要になると考えられます。
そして、その内容としては、上記の通り、人的資本、社会資本、金融資本の形成が重要になってくると考えられるため、それを形成するための努力も必要になってくるわけですが、
一番大事になるのは間違いなくこれらの資産を形成する元となるべき「自分の時間」の確保になるでしょう。
そう考えていくと、「自分の時間」をしっかりと確保して、その上で、自分の人生を真剣に送るモチベーションがじわじわと湧いてくるのではないでしょうか?