「加害者」
という単語にあなたはどのようなイメージを持っているでしょうか?
なんとなく、
悪いことをしている人
といったイメージが出てくる人が多いと思います。
「できれば、加害者にはなりたくない」
「加害者とかムリ」
と考えている人も多いでしょう。
加害は、害を加えると書くため、良いイメージを持っている人は極めて稀な単語だと思います。
しかし、
害を加えるといっても、実際のところ、その程度や内容や千差万別です。
例えば、誰かを死に至らしめるようなことをしたら、刑罰を受けることになるでしょう。
そのようなことは法律でも規制されていますしやってはいけません。
しかし、そのような重大な害を加えることではなく、
「ちょっと期待通りの事をしてくれなかった」
「ちょっと期待通りの反応をしてくれなかった」
という程度でも、いわゆる
被害者意識
を持つ人は世の中に存在するようです。
例えば、アイドルなどのように、
人に憧れられやすい人などは、その分、過剰な期待を抱かれることも多く、
ちょっとした言動だけで
「あなたがそんな人だとは思いませんでした」
などと被害者意識を募らせる人もいます。
このような反応をする人たちに配慮しすぎて、すなわち自分自身が加害者にならないように気を付けすぎて、自らの可能性を狭めてしまう人も存在します。
これは例えば、恋愛などの場面でも、
「ちょっとあの人を誘ったら、気持ち悪がられてしまうかもしれない」
といった意識が強い人というのは、
自分が相手にとっての加害者になってしまうことを恐れており、
結果的に全く声をかけなかったりします。
このような意識で色々な人と接しているので、
結果的に、声をかければ上手くいったかもしれないチャンスを逃すことになります。
恋愛に限らず、
「そう思っていたのであれば、言ってくれればよかったのに」
といった反応によって、自分が相手にとっての迷惑にならなかった可能性が存在するのにもかかわらず、
自分が加害者になってしまうかもしれない
といった恐怖によって、
あったはずのチャンスを逃してしまう、
といったことを多発させている人が存在します。
人に迷惑をかけてはいけない
人の期待に答えなければいけない
といった信念は確かに大事かもしれません。
しかし、
これは、自分自身が加害者にならないように気を付けすぎて、自らの可能性を狭めてしまうという側面も持っています。
一時期、
『嫌われる勇気』
という書籍がベストセラーになっていましたが、
加害者になるという勇気
もこれと似たような意識が必要でしょう。
故意に、殊更に、人に害を加えるのはもちろんよくありませんが、結果的に、加害を行ってしまう可能性を恐れすぎて、行動ができなくなってしまうことによる機会損失は計り知れません。
「加害者」になるという勇気が人生を変えることもあるのです。
昨今は、
セクハラ
や
パワハラ
などもよく問題視されているため、これは、仕方がない部分もあるのですが、
「取り敢えず、何かを起こしてしまうよりは、何もしない方が良さそうだ」
といった無難な生き方を選ぼうとする人が増えています。
しかし、無難な生き方をすればするほど、機会損失の可能性も高まるのです。
警戒しすぎて閉じこもっているのはもったいないと言えるでしょう。
「加害者」になるという勇気が人生を変えることもあるのです。