私は、人の性格、というものについて若干懐疑的な見方をしています。
「あの人は性格が良い」「あの人は性格が悪い」というようなざっくりとした用法もあれば、
「あの人は真面目だ」「あの人は慎重だ」「あの人は主体性がある」「あの人は克己心がある」
というより詳細な性格を挙げて描写が為されることが多いのが「性格」というものです。
これは、何らかの行為を例えばAさんが行ったとして、それをBさんが何らかの形で知覚した上で、そこから解釈が加わった上で、上記の描写をBさんが「Aさんは●●という性格だ」という形で行っている、というのが一般的かなと感じます。
いずれにしろ、Bさんから認識できたAさんの普段の言動の限りを判断材料として結論を下しているわけです。
そして、このAさんの「普段の言動」というのは本当の意味でAさんの24時間365日間のすべてではない、というのが難しいところです。
典型的にはDVの場面などで問題となりますが、職場では非常に温厚で愛想が良い、頼りになると評判の人であっても、家の中で配偶者等にDVを繰り返しているという話をききます。
これはいわゆる「外面の良い人」ということなのかもしれませんが、職場における言動と、家の中における言動が全然違う、という例になります。
このように場面によって言動が全然違う人というのは、自分の状況をしっかりと認識した上でこのような振る舞いをするのでしょう。
すなわち、職場においては立場がもともとさして良くなかったり、これから出世をすることを目指している場合、いわゆる自分勝手な振る舞いをすると、より立場の強い人の顰蹙を買ってしまい、自分の立場が悪くなる可能性があることから、そのような振る舞いは控えるものの、家にいる配偶者、特にその場所から逃げることのできない弱い立場にある人に対しては自分勝手な振る舞いをしても差し当たりは脅威にならないため「つい」身勝手な振る舞いになってしまうのでしょう。
職場においては人間関係で悩んでいる人が多いようですが、これは勤め人としての立場の弱さから皆に嫌われてリストラとかされたらどうしようという気持ちが生じたりして、無用な気まで遣ってしまってそれだけで疲弊してしまう事になりかねません。
仕事をしていてなんだか疲弊している、疲れてしまう、というひとは多いと思いますが、その中には純粋な仕事の負担だけではなく、職場の人に悪いように思われないための努力をするための精神力も使い切ってしまった結果疲れてしまうという要素もあるのではないでしょうか。
特に、新入社員の場合は、仕事を覚えるという点でも大変なのに、知らない職場の人と少しずつ仲良くしないと行けないということもあって、二重の意味で非常に疲れやすい立場にあると考えられます。
ある程度年次が進めばこの辺りの疲れやすさというのは段々無くなってくるようですが、一般的には職場の人間関係に完全に慣れるまでには3年間かかるというのが通説らしいです。
そして、職場において、性格が良いと言われるような振る舞いをしなければいけないと思ってしまうインセンティブは人によってちょっと違うのではないか、ということを私は考えています。
例えば、とにかく勤め先においては安定性、長い期間働いていたいと考えている人と、どうせ数ヶ月でやめる予定だと思っている人とでは、職場における言動は自ずから変わってくると思われます。
前者においては、職場における人間関係に気を遣わなければ生き残れないという意味で強力なインセンティブが働きますが、後者においてはほとんど働きません。
周囲の人間関係の善し悪しが自分の人生の善し悪しに直結してしまう状況に置かれたとき、人は他人に気を遣わずにはいられなくなり、他人に対して無関心ではいられなくなるのです。
このような形で他人の気を遣わずにはいられない立場の人は結果的に性格のいい人と称される言動をせざるを得ず、その結果性格の良い人と称される可能性が高まるのだと思います。
では、他人に気を遣わずにいられる立場の人はどうでしょうか?
気を遣わずにいられるのですから、素の自分が出てくると思いますし、他人からの支えの有無によってその人生を左右されないのですから、自ずと他人に無関心になりやすいと考えられます。
典型的な、他人に気を遣わずにいられる立場の人というのはズバリ金持ちの人でしょう。
金持ちの立場にいる人は、職場において働く必要が無いのですから職場における人間関係に気を遣う必要など全くありません。また、他人からの助けがなくてもお金を使って生活を維持するだけの資源を調達することが可能なのですから、日常生活においても他人に関心を持つ必要がありません。その人の素が出てきやすいと思います。
もちろん、経済的自由を達成した人も同じような立場になります。職場においても解雇が怖くなくなるため、職場の人に嫌われた結果解雇されたらどうしようなどという悩みがそもそもないわけですから、ある程度自分の好きに働くことが可能になります。
学校においても、職場と同じような環境かと思われます。学校で排除されてしまったら人生が終わりだと感じている人にとっては学校でいい人だと思われるような振る舞いを頑張ってせざるをえないでしょう。
いずれにしろ、他人から称される「性格」というのは、その人本来の性質などではなく、その人が置かれている立場、状況によって、そう見える言動をせざるを得なくなっている部分があるのではないか、と感じるのです。
逆に言えば、環境や立場、状況を変えてしまえば「性格」なるものも簡単に変わってしまうのではないか、その程度の物ではないか、と感じるのです。
こうやって考えると、「もし、今の状況を変えてしまったら、もっと今まで見ることのできなかった自分を発見することができるのではないか」とも感じます。
私が経済的自由を達成したいと感じる理由のうちの一つがここにあります。
すなわち、今の私が普段の生活で行っている言動から判断されうる「性格」というのは所詮は虚構に過ぎず、何か状況を変えてしまったら違う「性格」の私を新しく創ることができるのではないか、という仮説の下、経済的自由を達成したら、どんな「性格」の自分が創り出されるのだろうか、私はどのような「素」をもっているのだろうか、という好奇心を持っているのです。
努力によって、新しい自分を発見できるのではあれば、これほど面白いことはないのでしょうか?