手元の仕事を次々と処理していくと、ある時すべての仕事が終わってしまうこともあります。
また、何か目標を胸に抱いてその達成をすることもしばしばです。
しかし、何かが上手くいったり、ひと段落したということは本来いいことのはずなのに、
何か、幸せな感じがするというよりも、「次は私は何を目指すべきなのだろうか?」とついつい考えてしまいます。
何をするべきなのだろうか、と考えている時というのは不思議な物で、普通の人が喜んでいる娯楽というものが不思議と楽しくないものとして感じてしまうのです。
ここでいう、普通の人が喜ぶ娯楽というのは、youtubeとか、ゲームとか、そう言ったいわゆる消費をするタイプの娯楽です。
どうも、自分が楽しく過ごせている時というのは、自分が設定した目標に向かって直向きに頑張っている時なのではないか、と感じます。
したがって、目標が達成されてしまったり、生活が安定してしまった瞬間に、「つまらない」という退屈、虚無の感覚が襲ってきます。
もしかしたら、私に「安定」という名の退屈は幸せをもたらしてはくれないのかもしれません。
むしろ、目標設定→目標に向かってとにかく努力する→目標を達成するまでの間にしか私の幸せはないのかな、と感じることがあります。
これはもはや、常に変化を怠らないことを宿命づけられているのではないか、とすら感じます。
今までは変化の激しいとされる時代に対応しようという意識で身軽さを意識してきましたが
変化に対応するという受動的な視点ではなく、自分の幸福感のために激しい変化を自ら起こして、あらゆる目標に挑戦するという能動的な視点を持っていくことが案外大事になりそうだと感じます。
そして、激しい変化を自ら志向するということは、「こうなりたい」という目標設定の材料を常に外部から調達するようにする必要があるのでしょう。
私にとって虚無感を感じる瞬間が多い場合には幸せではないという状態が続いているということでしょうから、常に新しい目標をどうするべきかと考えるようにするべきなのかもしれません。
このような意味でもしかしたら、私には逃げるように勤め人としての生き方から単純に脱するだけのアーリーリタイアやFIREは根本的に向いていないのかもしれません。
そもそもの話、アーリーリタイアやFIREは自分の時間を勤め先に搾取されることなくフルで取り戻すための行動なので、フルで取り戻したら一体何をするのか、ということを考えておく必要があります。
それは単純にアーリーリタイアやFIREを決断する直前までにとどまらず、決断後の日常においても常に目標設定とその達成に向かって頑張ることが幸福感につながることになるでしょう。
これは完全な自由と引き換えに、生き方の決断を常に自分の側で責任を負う必要があるというある意味大変な生き方なのだと思います。
逆に、勤め先を辞められずにいる人の方が他人に人生の大部分を左右される生き方をしている分、何かを他人のせいにすることが簡単であり、これが飲み会における職場の愚痴などに繋がってきます。
思えば、私は飲み会においては少なくともここ一年くらいはコロナ禍もあってそもそも行っていないというのもあって、仕事がつまらないなと思ったことはありましたがわざわざ上司について愚痴を喋ろうと思ったことすらありません。
これはもはや勤め先に大して期待していないということでもあるとは思いますが、自分は自由に近づいているという認識とともに自分こそが自分の人生の責任を負っている、誰も責任を負ってはくれないという感覚が強いのかもしれません。
そして、いきなり完全な自由になってしまうと、それまでに自分を律する能力を鍛えていなければ、外部からの強制力が何もない分、何も目標を達成できなくなってしまうという予測が自分自身に対してあります。
したがって、私が勤め人として頑張っている間に同時にやらないといけないことは、抽象的には、他人からの強制力が一切ない状況下における①目標設定を何度も行うための訓練及び外部刺激のシステム構築、②自分自身が設定した目標を何度も何度も達成するための再現性の高い方法論の確立、ということになるでしょう。
この辺りも含めて、自分を確かに律する能力、習慣化の習慣化を含めた自分を人生において何度も好きな方向に生まれ変わらせる能力、をもっと鍛えることができるようになることが今後の課題になるのかなと感じています。