基本的に、youtubeでゲーム実況は見ないようにしているのですが、もともと好きだったゲームの続編が1年ぶりに出ていたので、それに関するゲーム実況をyoutubeで見ました。
私の中では、このようなゲーム実況をyoutubeで見るという行為は、第4領域、すなわち、緊急でもなければ重要でもない、という位置づけの行為です。
すなわち、いわゆるただの娯楽に分類される行為なのですが、この第4領域というのは楽しい依存症に受動的な姿勢のまま引き込まれる側面もあり、ついつい時間を使いすぎてしまうという特徴があり、ゆえに、第4領域によって時間を浪費してしまうと後悔が残りやすいという特徴があります。
今回は、夜の22時頃から26時頃までゲーム実況を視聴していました。
これは私の中では結構長い時間youtube視聴をしていたということになると思います。
油断すると、このぐらいの時間をゲーム実況に使ってしまうわけですが、毎日このようにゲーム実況を視聴している人の場合、こんなに時間を使っているという事実そのものになかなか気づかない、気づけない、という罠があります。
なぜ、こんなことを言うかというと、今回ゲーム実況を視聴している最中に私の中で、ゲーム実況を楽しみつつも、しかし、「ゲーム実況を見る場合は、私はこんなに時間を使っているのか・・・・・・」と思いながら、時計が24時30分を超える瞬間を眺めていたからです。
おそらく、普段からゲーム実況を見たり、youtubeを娯楽のメインとして楽しむことを習慣にしている人はそんなことを考えることもなく、視聴を楽しんでいるでしょう。
何故なら、かつて、高校生の時に永遠にニコニコ動画を見ていて禄に学校に行こうともしなかった(不登校だった)昔の私の時間感覚がそのようなものだったからです。
あの頃は、ともかく手元にある娯楽を楽しむこと=私にとって人生で楽しむべき事だったということもあって、とにかく、ニコニコ動画やyoutubeを見たり、オンラインゲームで遊びまくることこそが私にとっての楽しみでした。学校に通ってやるべきとされていることをやるよりもそのような娯楽に費やすことの方が何も難しいことを考えずに済んでいたわけですから楽だったし、しかも、コンテンツもとても楽しかったわけですよね。
まさに、自分の中からわき上がってきた短期的な欲求に即時に答えてくれるコンテンツをもたらしてくれる物に高校生の頃の私は依存しまくっていたわけです。
しかし、その代償として、夜の時間を何時間も費やすことになります。
今回は、夜の22時頃から26時頃までゲーム実況を見ていた代償で、その分就寝時間が後ろ倒しになってしまったことから、起床時間が朝の10時頃になりました。
正直に言うと、ここ1年ぐらいは普段は朝8時よりも前に起きることの方が多かったので、ゲーム実況に時間を26時頃まで費やすだけで、起床時間が自動的にここまで簡単に後ろ倒しになるとは思っていませんでした。
睡眠時間というのは基本的に削ることができないので、やはり、早起きをしたければその分早めに寝ることが何よりも重要であり、しかも、寝る前にyoutubeの動画を集中して見ている場合ではない、という、非常に当たり前のことが確かに正しかったのだ、ということが実感を持ってよくわかりました。
因みに、今回、朝10時に自分の目が覚めたことを確認した直後に私がしたことは自分の手を眺めたことです。
何故、この時、自分の手を眺めたのかは不明ですが、その時思ったのは、
「私の手は今はこんなに若くて綺麗な手をしているけれども、私が自分の親世代のように、30年後にこうやって朝目が覚めた瞬間に、ふと、自分の手を眺めた時にはここまで若くて綺麗な手をすぐに見ることができるとは限らない、むしろ皺が多くて弱々しい手しか見ることができない可能性があるんだよな・・・・・・」
ということです。
何故、いきなり30年後に自分が朝目を覚ました時のことを私がイメージしてしまったのかはわかりません。
しかし、普段はこんなことをしたり、考えてみたことがある人はあまり多くはないのではないでしょうか。
おそらくですが、私は朝10時に起きたことを認識した瞬間に、「これは昨日22時から26時頃まで第4領域に時間を取られてしまったから、だからこそ、こんなに遅い目覚めになったしまったのだろう」という因果関係をすぐに認識したからでしょう。
そして、そこから、自動的に、毎日そのような生活を、すなわち、第4領域に時間を吸い取られる生活を続けた場合、そのままそれが当たり前の負の習慣となって長い間年数が積み重ねられ続けたら一体自分の人生はどうなってしまうのだろうか、ということを考えたのかもしれません。
もう、ゲーム実況を視聴していて、ふと時間を気にし始めた24時30分頃から多分、そういう後悔を次の日にしてしまう予感はすでに出てきていたわけですよね。
多分、このまま行くとまずいぞと、何かが私に警告し始めてくれたのだと思います。
ゲーム実況を視聴するという、ある意味ほんの些細な行動に過ぎませんが、この行動が負の習慣として束になってしまった場合の私自身の未来予測を私の頭はし始めていたのです。
思えば、普段、このような形で警告を発してくれるアイテムや人間というのは身近にあまりないですし、いません。
例えば、ダイエットをする際なども、基本的には、健康状態に悪影響を及ぼす変なものを食べないという姿勢を貫く必要があるわけですが、何も考えずにいると、変な物を購入してそれを口に入れてもなんとも思わないわけですよね。
しかし、例えば、腕時計のようなウェアラブル端末のようなものなどによって、「これを食べると貴方は1年後には肥満体型になっている確率は90%になります。具体的にはこんな感じの体型になりますが、それでもこれを食べますか?」みたいなことをイメージ画像とともに教えてもらえるようになったらどうでしょうか。
急に、食欲が抑制され、「やっぱり食べるのはやめよう」と思う気持ちの方が強くなるのではないでしょうか。
現在地点においては、何もなければ、未来のことなど全く考えもしないでしょうけれども、ほんの些細な行動が未来に影響を及ぼしているということがわかってしまうため、それを考慮した行動を取るようになるわけです。
微差が大差を生むとはよく言われますが、しかし、残念ながらこの言葉だけを知っていても実は全く意味は無く、これは実際どういう行動をしていれば大差に繋がってしまうのだろうか、という因果関係について予め知識を自分の中に入れておかないと現実的に普段の行動に活かすことは難しいと考えられます。
私自身は、ここ1年ぐらい前からようやく時間こそが有限な資源であるとはっきりと認識し、その上で、時間管理、タイムマネジメントの観点で自分の普段の行動を逐一見直していたからこそ、第4領域に時間を使ってしまった場合の自分自身の未来予測がしやすくなっていたのでしょう。
逆に言えば、意識して自分を訓練しなければそんな未来予測すらできないため、微差が大差を生んでいても全くそれに気づくことすらできないわけです。
こうしていつの間にか、やるべき行動をやっている人と、やるべき行動をやっていない人との間で、現実的に、微差が大差に繋がってしまうわけです。
もっとも、微差が大差を生むという表現は他人との比較を想定する節があるため、あまり好ましくないと考えてもいます。
思うべきは、やるべき事をやってきた未来の自分と、やるべき事をやってこなかった未来の自分と、どちらになりたいのか?この行動で後悔しないのか?ということなのかもしれません。
これは、どういう人生を結局自分は送りたいのだろうか、ということになるでしょう。
このように、普段の私たちは無意識に気ままに行動したりしてしまいがちですが、目の前の一秒一秒において、なりたい自分になれるのか、それとも、なりたい自分になれないのか、という分水嶺で常に闘いを迫られているということになるでしょう。
改めて、自分の人生に集中して生きたいと感じました。
そして、同時に私が惹かれやすいのは、しっかりと脇目も振らずに自分の人生に集中しているような人なのかもしれないな、ということをふと思いました。
そのような人は私に特に興味を持ってはくれないかもしれませんが、しかし、そのような人を参考にして、私自身も自分の人生に集中したいという気持ちが強いのかもしれないと感じます。