「最近、不登校の子供が増えている。なんとかならないか」
といった問題意識を時折聞くことがあるのですが、
かつて、不登校状態であった私が思うに、
「結局、不登校って何が問題なのだろうか。どこまで問題があるのだろうか。」
と疑問に感じるのですよね。
例えば、学力が下がってしまうという問題があるのであれば、
独学するなり、学習塾に通うなりすればよいでしょうし、
繋がりを持てる友達ができないという問題があるのであれば、
地域社会の中で、「何とかクラブ」なりなんなりに入ることによって、他の年代を含めた人と交流することも可能ですよね。
人によっては、
「自分が通っている学校にいるクラスメイトよりも、他の学校に通っている同年代の人との方が仲が良い」
というパターンすらあり得ます。
一般的に、
「学校にはちゃんと行った方が良い」
という話を聞きますが、
卒業資格は、私の経験上も毎日授業を出席しなくても取ることは一応可能ですね。
「学校にしっかりと通うメリット」
を細かく分析していくと、不登校であっても、その効用を他の手段で代替できるものが多いのです。
では、なぜ学校教育が推されているのか、と言えば、
これは、おそらく、
いわゆる、結婚などと同様に、
「上手く当たれば様々な効用が一気に手に入るから」
でしょう。
要は、様々なサービスを詰め込んだ巨大なパッケージ商品のようなものです。
パッケージ商品ですから、その内容の多くが自分と合っているのであれば、これほどお得な商品はありません。
公立の学校の場合であれば、大してお金もかからないですから、親にとっては嬉しいでしょう。
しかし、そのようなラッキーな人が存在する一方で、
「そもそも、学校まで2時間近く通学時間がかかる」
「クラスメイトの中に友達になれそうな相性の良い人がいない」
「授業のペースが自分に合わない」
「学校行事に気に入らない物があって参加したくない」
などのアンラッキーが続くと、このようなパッケージ商品の魅力は急速に失われていきます。
この場合は、金銭的に多少割高になってしまったとしても、
それぞれの効用につき、別途それぞれのサービスを導入しつつ、パッケージ商品を解約した方が良いという場合もあるのです。
これは、例えば、
「3年間で40科目の授業を受けられます!合計で最初に100万円を支払うだけでこのサービスを受けられます」
という通信教育があったとしても、
「私の場合、40科目の授業のうち、15科目ぐらいしか受けたい授業がない」
という状況であれば、
その15科目分を別の業者が提供している通信教育をそれぞれ契約して、合計90万円の金額をそれぞれの業者に支払うといったやり方の方が本人の目線では良いかもしれません。
同じように、結婚も巨大なパッケージ商品のような性質を持っているでしょう。
結婚した瞬間に様々な拘束が生じるからです。
それは例えば、
「親戚付き合い」
かもしれませんし、
「扶養義務」
かもしれませんし、
「相続の権利」
かもしれません。
結婚をした瞬間に様々な拘束が生じるため、それの全てが自分の希望に合っていた人にとっては、
「やっぱり、結婚した方が良かった!幸せ!」
と感じるかもしれませんが、
アンラッキーが続いた人にとっては、
「少なくとも、この人とは結婚するべきではなかった、早く離婚したい」
という結論になるでしょう。
結婚前に相手を選ぶ段階でも、
「この人と結婚するのは微妙かもしれない」
という判断が起こるのは、
このように巨大なパッケージ商品を得るためのコストが重すぎると感じることが度々あるからであって、
「すごくよい!」
と感じるようなパッケージ商品(=結婚相手)がなかなか見つからない人は、独身の状態の方が幸せになると言えるでしょう。
このように、パッケージ商品というのは、極めてお得な場合もあれば、全く逆の場合も存在します。
合わなかった人の場合は、他の代替手段を探さないといけないという意味で大変かもしれません。
しかし、それを乗り越え、上手く、他の代替手段を探せた人の場合には、単純にパッケージ商品を買った人に比べると、
「その人の個性が輝く」
「(自分で選択しなければいけない分)デザイン性が生じる」
という意味で、むしろ、パッケージ商品を得た人よりも、「稀有な」、「味のある」、そんな人生を送ることが可能になるのです。
「不登校の人をなんとかしないといけない」
そのような話を聞くたびにそのようなことを想うのです。